モリシゲ ブログ

  • 雛人形

人形のモリシゲ

平安春峰(ドールコーディネーター)

雛人形の歴史ー兼高かおると大阪万国博覧会EXPO‛70

昭和57年に人形のモリシゲは、神戸新聞会館一階に神戸三宮店を開店しました。私は、開店と同時に責任者として赴任しました。開店記念のイベントとして大阪松屋町のモリシゲ人形会館に展示されていた江戸時代の人形を神戸新聞会館7階の特設会場で公開展示しました。同時に、電通映画社に依頼し、商品撮影とビデオを制作しました。以下の画像とビデオは、その当時のものです。モリシゲは、このビデオをCMソング(私の人形はモリシゲでお顔が良くて可愛くて~♪)と共にTVの天気予報のバックに流し提供したことで、関西での知名度を上げることになります。(当時、神戸新聞会館は、山一證券の富士山の広告で有名なビルでした。平成7年の神戸淡路大震災で取り潰しになり、同時にモリシゲ神戸三宮店もやむなく撤退することになります。)私は、江戸時代の人形を出し入れする中で、そのたびに人形が痛んでいく事を実感し、人形美術館で保存していただくことが一番ではないかと思うようになりました。そこで、横浜の人形の家に相談することにしました。人形の家は横浜市が運営し、TBSの「兼高かおる世界の旅」の兼高かおるさんが館長を務めていました。兼高さんは、興味を示され、大阪太閤園で人形を披露することになりました。私は、幼いころより「兼高かおる世界の旅」を見てきました。もちろん大ファンでもありました。初めての有名人との会食に、とてつもなく緊張したことを覚えています。結果的に、譲り受けていただくことに至りませんでしたが、江戸時代の人形展を横浜人形の家で開催することになりました。メイン画像は当時の案内パンフレットです。その後、福岡県八女市のフジキ工芸産業に譲り受けていただき、本社に併設されている人形会館二階に常設展示されています。以下は、展示人形画像とその内容です。

雛人形の歴史 人形のはじまりとその歴史 (江戸期人形その美と心)

人形の祖先は、人の形をした人形(ひとかた)、形代(かたしろ)、ほうこ、あまがつといったものが古く、祓えや魔除けの色合いを強く持っていました。奈良時代中頃、平城宮朱雀門前で、六月と十二月の最終日には、大祓えが挙行されました。国がおこなう最大の祓えでした。皇族をはじめ役人全員が参加しました。壬生門の前の溝からは、大祓えの時に使った人形200点あまりが見つかっています。災いを人に代わって背負い水に流される。人形のそもそものはじまりは、深く信仰と結びついていました。やがて子供の健やかな成長を願い、あまがつ、ほうこというシンプルな人形が部屋に飾られるようになりました。ひいなとは、小さくて可愛らしいもの、その姿は、紙から押し絵、衣裳を付けて胡粉を塗る精緻(せいち)な物となり、人々の好みを色々に写し取るようになりました。時は移り絢爛たる武家文化、町人文化を花咲かせた江戸時代、日本の人形文化は一気に黄金時代を迎えます。

端午の節句に飾られた武者人形

端午の節句に飾られた武者人形、武を尊(たっと)ぶ御祝に家の前に飾られた兜や鎧が、いつしかこのような人形となって座敷に飾られるようになったのです。後三年の役の勇者、源義家(写真上)、神話時代、新羅(しらぎ)遠征に数々の武勲を挙げた神功皇后(写真下)、何れも勇ましい物語を人形に見たてています。

江戸期の優れた衣裳人形

謡曲高砂を舞う人形(写真上)、舞の初さ添えられた翁(おきな)、嫗(おうな)の面、重ね着している能衣裳の一枚一枚に至るまで丁寧にこしらえられた衣裳人形。江戸期には、このような優れた衣裳人形が、数多く見られます。中国の皇帝を見たてた鶴亀(写真中)、大陸風の衣裳に切れ長な面立ち、冠に鶴亀をいただいて立膝をしたその姿は、衣裳人形の絶品と言えます。初番目物(しょばんめもの)の能「鶴亀」を題材にしたもので、長生殿の初春の節会(せちえ)で皇帝に長寿をさずける鶴と亀を写しています。水引を付けてあどけなく笑う立姿三体(写真下)、水引は、この人形が贈り物に使われたことを表しています。 どんな人が、どのような御祝に、この愛らしい人形を飾ったことでしょう。中国風の唐子(からこ)人形や、たっつけ袴に、甚兵衛(じんべえ)をはおった道中物売りの姿、角頭巾(すみずきん)を被り、上っ張りに前掛をしめた店売りの姿など、当時の生活振りが生き生きと写されています。

御所人形とお雛様

京都を通る西国大名が、御所参内に賜ったり、勅旨下向(ちょくしげこう)の際に徳川家のお土産に用いたのが、この御所人形(写真上)です。三頭身の大きな頭に特長のある目鼻立ち、御所人形は、日本を代表する人形と言えるでしょう。 人形と言えばお雛様、お雛様と言えばお内裏様、男女一対の内裏雛は、はじめは、立ち姿(写真下)でした。紙で作られ衣裳も男雛(おびな)は鳥帽子(えぼし)に小袖、袴、女雛(めびな)は小袖に細幅の帯姿で室町時代の庶民の風俗をかたどったといいます。しかしその顔立ちの美しさは、もう立派なお雛様です。

享保雛と有職雛

座雛は立雛よりおくれて江戸中期の終わり頃から盛んになり、様々なタイプのものがつくられるようになりました。古いものから順に、室町雛、寛永雛、元禄雛、享保雛(きょうほびな)、有職雛(ゆうそくびな)、次郎左衛門雛、古今雛(こきんびな)と発展しました。この中でも享保期に流行した享保雛(写真上)は、現在の雛人形の原型になりました。 雛の頭に髪が植えられ、目は切れ長で、口を少し開いた写実的な面だかな顔立ち、男雛の衣裳は、金襴、錦などを用いて、太刀を差し、手に笏(しゃく)を持たせています。女雛は、五衣(いつつぎぬ)の重ねに唐衣(からぎぬ)姿で、袴に綿を入れて丸く膨らませ、袖を大きくはみ出し、手に桧扇(ひおうぎ)を持たせています。この時代は、町人階級が台頭し贅沢な高級品が好まれて人形が大型で豪華になりました。その大きさを今のお雛様と比べて見ると違いが良くわかります。豪華になりすぎたため幕府より「八寸以上のものの製作を禁ずる」とのおふれがたびたびだされたようです。享保雛の豪華さとは対照的に公家風俗を正しく考証した有職雛(写真下)、朝廷の装束を担当する公家の高倉家、山科家が調整したと言われ、身分、年齢、季節などによる有職の定めを正しく伝える気品あふれるお雛様です。

京都の有職雛に対して作られた江戸の文化・文世期の古今雛、その傑作とも言える第十一代将軍家斉侯ゆかりの二十二人揃い雛人形(写真上)、この雛人形は、家斉公が、末姫誕生を祝って十数年の歳月をかけてつくりあげらせたものです。その大小千三百点にも及ぶ道具類の数々(写真中)。ミニチュアながら実物の高級品同様に、極めて細工が細かく、かつ絢爛(けんらん)豪華につくられており、当時の大名貴族の豪奢(ごうしゃ)な生活ぶりがしのばれます。 人形を愛し、いとおしむ気持ちがこれほどまでの美しさ、豪華さを創り出しました。 古今雛の面長な顔立ちは、京の御所文化への憧れを示しています。また、眼にガラス玉や水晶をはめ込んだものもあり、衣装に金糸や色糸で縫紋(ぬいもん)をしたり、袖に紅綸子(べにりんず)を用いたりして華麗に色彩豊かにつくられました。もう一つ特長のある雛人形に、徳川親藩尾張大納言十三代徳川義親侯ゆかりの十五人雛段飾り(写真下)があります。面白いことに人形の大きさが上の段から下の段に行くほど大きくなっています。現在ではお内裏様は、三人官女や五人囃子よりも大きいのが普通です。 これも時代背景を写しているのかも知れません。 当時、武士よりもお公家様のほうが位が高かったわけですが、「実際には、武士の方が偉いんだぞ」ということを人形の大きさに表したのかも知れません。 雛段前の金蒔絵をほどこした八角形の見事な貝桶、貝合わせは平安時代から始まった遊びで、内側に源氏絵などが描かれた360個の蛤を二つに分け、同じ絵の蛤を一対でも多く合わせたものが勝ちとなる遊びです。この貝桶を見ていると当時の人々の貝合わせを楽しむ声が聞こえてくるようです。

人形を愛した当時の人々の思い

ここに紹介しました人形たちは、昔の大名や旧家の所蔵品が大部分ですが、これらを特に優れた人形たちとしているわけではありません。美術工芸的な意味での優劣はともかく、人形を愛する人々が大切にしていた人形なら、それが素朴な土人形であろうと、細工の粋をこらした豪華な雛人形であろうと、その人形を愛する人にとっては最高のものです。幸運にも人形を愛する人々の手で今日まで受け継がれてきたことが大切なのではないでしょうか。これらの人形を愛した当時の人々の思いをしのび、この祖先から伝わる、これら真心の遺産を大切に次代に引き継がなければなりません。次頁のパンフレットは、平成元年まで利用していたものです。そして、横浜人形の家で人形たちを披露した後、福岡県八女市にあるフジキ工芸産業人形会館に譲り受けていただきました。現在も大切に保管展示されています。下記の写真、上から江戸時代の道具を大手節句メーカー赤瀬産業の初代社長に制作商品化していいただいた作品(昭和60年)、江戸時代22人揃えを制作商品化した作品(平成元年)、横浜人形の家パンフレット裏面(平成元年)、江戸時代人形展招待券(平成元年)

 

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平安春峰のひとりごと~兼高かおると大阪万国博覧会EXPO70~

日本のテレビ史上に燦然と輝く、紀行番組の金字塔「兼高かおる世界の旅」。1959年、当時の日本人にあまり馴染みがなかった世界各地を駆けめぐり、その風俗・文化・歴史などを紹介する本格的海外取材番組としてスタート。日曜の午前中はこの番組を見なければ1日が始まらないとまで言われるほど、多くの視聴者に親しまれ、31年もの長寿番組となった。訪れた国の数は150カ国あまり、地球を180周した計算になる。兼高かおるは、ナレーター、ディレクター、プロデューサーを全て一人でこなし、当時の国家元首から秘境の地に住む村人まで様々な人々と接し、幾多の冒険にも果敢に挑戦した。民間人の海外渡航が自由にできなかった時代。彼女の「世界をお茶の間に運ぶのが私の仕事」という言葉通り、実際に自らの目で見てきた、手で触れてきた世界の旅。すべてが番組内の貴重な映像の数々に凝縮されている。(TBSチャンネルより)

私も日曜の午前中はこの番組を見なければ1日が始まらない一人でした。パンアメリカン航空のジェット機が離陸する映像と共に流れる「80日間世界一周」のテーマ音楽を聴くだけで心がときめき至福の世界に導かれていきました。また、兼高かおるさんの品格のある語り口調が最高でした。昭和の良き時代を象徴する語り口調であったように思います。そして、上品でありながら真面目にズッコケる場面がとても好きでした。私の人生も真面目にズッコケることが多いので勇気をもらいました。いつしか、私は、兼高さんのように知らない世界に出会いたいと思うようになりました。幼い頃、一度だけ世界の様々な国々に出会う機会が訪れました。小学校5年生のことです。「思い念ずれば花開く」奇跡のような出来事が起こりました。それは、大阪万国博覧会EXPO70の開催です。両親と二回、学校から一回、姉と四回、計七回訪れました。これほど楽しく思えたことは、人生にありませんでした。永遠に博覧会が続くことを願ったことを覚えています。博覧会では、あまり有名でない国々のパピリオは並ぶ時間が短かったのでどんどん回りました。そこには「兼高かおる世界の旅」の世界がありました。今までテレビでしか見たことがない人々がコンパニオンとして笑顔で迎えてくれました。鮮烈な刺激でした。展示物もテレビで見覚えるあるものが目の前に登場しました。果たして、五年後の大阪万博ではどれだけの感動があるのだろうか。私のあこがれのお姉さんだった兼高かおるさんが昨年お亡くなりになりました。私は、各テレビ局が特番を組むものと思っていましたが、ほとんどありませんでした。今日、旅番組が溢れている世の中のオピニオンリーダーであり、功労者であるにも関わらず残念なことです。兼高かおるさんを知らない若者に、昭和の良き時代を象徴する語り口調と上品でありながら真面目にズッコケる兼高かおるの世界を伝えてほしいと思うばかりです。話は変わりますが、大阪万国博覧会の日本館は、学校から見学させてもらいました。印象に残っていることはリニアモーターカーです。日本の技術は凄い、このパピリオンに訪れた外国人はさぞかし驚くことだろうと思いました。そして、近い将来、実現することに胸を膨らませたのを覚えています。あろうことか、半世紀が過ぎたにもかかわらず、いまだに実現されていません。飛行機と同じスピードであれば国内で飛行機を飛ばす必要がなくなるのでは・・・大阪ー東京間、ジェット機はどれだけのドラム缶の燃料が使用するのだろうか・・・まして、離島は別として全国となれば一日に使用するドラム缶の燃料はどれほどの量なのか・・・温暖化が叫ばれる中、日本のリニアモーターカーが実用化されていたならば、この技術は世界を救う役割を多少なりとも果たしていたのではないかと思います。私は、ここ数十年、江戸時代の人形に会っていません。ブログを書くうちに久しぶりに会ってみたくなりました。兼高かおるさんを偲んで 合掌

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