モリシゲ ブログ

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人形のモリシゲ

平安春峰(ドールコーディネーター)

雛人形の歴史-書聖王羲之-

西暦303年3月3日に生まれた有名な人物がいます。ひな祭りの誕生日のような年月日ですがそうではありません。画像の人物は行書体を生み出した書聖王羲之(しょせいおうぎし)(303~362)です。今日では、年賀状の宛名を年賀状ソフトの行書体で印刷されている方も多いのではないでしょうか。中国では、書は絵画よりも上とされています。その書を芸術まで高め頂点を極めたのが書の聖人とまで呼ばれた王羲之です。書聖王羲之は、並々ならぬ書の研鑚の中から行書体をあみだします。「書は人なり」という言葉がありますが、書聖王羲之は生涯を賭けて、まさにこの言葉を身をもって示した人物です。中国では非の打ちどころのない完璧な人間を聖人と呼んで尊敬しています。

書聖王羲之の逸話「山陰書そう図」と天下第一の行書「蘭亭序」

当時、王羲之が書人として名を成していたことを物語る絵があります。山陰書そう図(下上図)です。ある日、王羲之は、橋のたもとで団扇を売る老婆に出会います。王羲之は、筆を取り出し老婆の団扇にさらさらと文字を書き込みます。「団扇が売り物にならない」と嘆き怒る老婆に「王羲之の書だ」と言って売ってごらんと声をかけます。団扇は瞬く間に売り切れました。その後、老婆が団扇に文字を書いてくれるように願っても王羲之は取り合うことはありませんでした。すでにこの頃、名人の書が人気を集め売買されていたことを物語っています。そして書聖王羲之が、後世に名を残す会稽山陰(かいけいさんいん)の蘭亭(らんてい)で流觴曲水の宴を催します。曲水の宴とは、貴族文化の粋とされる雅な遊びです。小川のほとりに並んで座し、自分の前に杯が流れてくるまでに詩を詠みあげなければならない、読みあげることができなければ、罰として杯のお酒を飲み干さなければならないという宴です。当時、王羲之五十歳、後にも先にも生涯つうじてただ一度の曲水の宴です。また、中国史上最も代表的な宴となり、後世の画家たちが、この日の故事にちなむ名画を数多く残しています。この宴は、東晋(とうしん)永和九年、西暦353年の旧暦3月3日。紹興酒(しょうこうしゅ)で有名な紹興市郊外会稽山陰の蘭亭に、当代の名士たち四十一人を集めてはじまりました。そこで、できあがった詩文を一冊にまとめ、巻頭に王羲之が序文をつけました。これこそ中国書道史上「天下第一の行書」と絶賛される「蘭亭序(らんていじょ)」です。

唐の太宗李世民の心とらえた書聖王羲之

歴代の皇帝の中でもとりわけ名声が高い唐の太宗李世民(たいそうりせいみん)(598~649)は、異例なことに自ら筆を執り王羲之の人なりを記しています。「王羲之、字は逸少(いつしょう)、(中略)長ずるに及んで弁舌さわやかに、硬骨漢として世に知られた」最後に「尽善尽美(じんぜんじんび)」と最高の賛辞を捧げている。かつて孔子がいにしえの聖なる王、舜(しゅん)の音楽に捧げた言葉で、善を尽くして美を尽くす善と美のどちらも完璧であるという意味です。王羲之没後200年近く、戦乱の中、王羲之の書のほとんどが行方不明になります。そこで、太宗が、王朝の威信を賭けた文化事業として王羲之の書約二千点を収集整理しました。ところが、残念なことに、西暦649年太宗は、臨終の床で集められた書を自分の亡骸とともに埋葬するように遺言してしまいます。それほどまでに、王羲之の書は、至宝の中の至宝であったのです。王羲之の約二千点の書は永遠に地上から姿を消すことになります。すなわち現在伝えられている王羲之の書は真筆ではなく、太宗が模写係に精巧にうつさせた写本や拓本なのです。実に残念な事柄ですがいつの日か真筆が発見されることを祈るしかありません。この時期に、日本から第一回遣唐使として犬上御田鍬(いぬがみのおたすき)が、派遣されることになります。 犬上御田鍬が、唐の長安に留まったのは、たった二年ですが、その間に収集整理された王羲之の約二千点の書の真筆を埋葬されるまでに見ることができたかもしれません。そうであれば、犬上御田鍬は、王羲之の真筆を見た唯一の日本人であったことになります。下の「しょう翼たん蘭亭図」は、太宗が部下のしょう翼に、どのような策を講じても、王羲之の最高傑作である「蘭亭序」を手に入れるように命じ、首尾よく手に入れて勇んで皇帝の元に戻るさまを描いたものです。その後、「蘭亭序」も例外ではありませんでした。永遠に地上から姿を消すことになります。

清の乾隆帝の心とらえた書聖王羲之

また、有史以来、中国で最大の版図に君臨した清の乾隆帝(けんりゅうてい)(1711から1799)は、北京の紫禁城の中に王羲之一族の三点の書を収めた小さな書斎設えました。皇帝が日々の暮らしを営んだ養心殿の一角にある三希堂です。三希とは、三つの希少なものという意味です。皇帝は激務の合間に、宝物を見ることで心を慰めたようです。三希の法帖のなかでも至宝とされる、王羲之の「快雪時晴帖(かいせつじせいじょう)」は乾隆帝が特別に愛した文物でした。本文わずか二十四文字の短い手紙です。大まかな内容は、「羲之頓首。吹雪のあとの晴れ間、貴方様におかれましては、お元気のことと存じます。お約束の件、未だ果たさず。力至らず。王羲之頓首」といった内容です。行書でしたためられた簡潔な文面に、皇帝は自ら筆を執り、その余白に「神」と大きく記しました。最上級の誉め言葉です。さらに、「技に神たり」と跋文(ばつぶん)を加え、惜しみない賛辞を送っています。下の「弘歴是一是二図(こうれきぜいつぜじず」は乾隆帝が三希堂で宝物を鑑賞している姿をお抱えの画家に描かせたものです。

三月三日は、上巳の節句-曲水の宴-

3月3日は日本では、ひな祭りを一番に思い浮かべます。しかしながら、中国では、ひな祭りの誕生以前から3月3日は上巳の節句でした。上巳の節句は、漢民族にとっては祖先の魂を迎える禊(みそぎ)の日です。この日に行われる曲水の宴は、2300年前の中国の戦国時代の昔から伝えられてきた、大切な伝統行事です。旧暦の3月3日は、だいぶ暖かくなってきた時期でもあり、古くは流れに浮かべたのは杯ではなく人間の体でした。つまりこの日は禊(みそぎ)がおもな行事でした。禊は、厄除け、豊作祈念、子孫繁栄、雨乞いなど、各種の目的をもち、各地にさまざまな形で発生しました。はじめに行われた「水浴」はしだいにすたれ、水辺のほとりに出て遊び、楽しい行楽や摘み草などが主となり、それがいつのまにか「曲水の宴」となり、同時に貴族化されます。2300年前に、この宴を最初に行ったのは、秦の昭王と言われています。秦の昭王は、始皇帝が王位に就く五年前の紀元前251年に亡くなりました。昭王の在位は56年間という長期に渡るものでした。春秋戦国時代の覇者として近隣諸国から恐れられた人物でした。また政策、戦術の手腕もさることながら、文化行事にも造詣が深い人物でもありました。生きるか死ぬかの極限状況下の戦国時代の中で曲水の宴を考案できる才覚こそ王道の精神なのかもしれません。今年、人気漫画キングダムの実写版が映画化されました。キングダムの漫画の中にも昭王の名前がたびたび出てきます。戦闘に明け暮れる中において曲水の宴を楽しみ心を癒していたのです。主人公の一人政王は、中国を統一し、秦の始皇帝となります。キングダムは、始皇帝の若き日を描いた物語です。宇宙から見える人類唯一の建造物、万里の長城を完成させた人物ですが、その他、文字や枡の統一をしたことでも知られています。政が王位についたのは、紀元前246年のことです。そして、最初の皇帝、始皇帝となったのが紀元前221年のことです。私は、キングダムの愛読者ですが、それは最近のことです。キングダム映画化の宣伝を見て興味本位で一巻目を読んではまってしまいました。10年間かけて描かれた五十四巻を一か月で読んでしまいました。面白くて止まらなかったからです。驚くことに五十四巻で、まだ政王は始皇帝になっていません。政王の生涯はどこまで描かれてい行くのだろうか。若き日の始皇帝だけでこれだけのエピソードを考え、人を引き付ける内容を描く原作者、原泰久先生の想像力には計り知れないものがあります。キングダムの時代からおよそ600年間、曲水の宴は連綿と受け継がれ、中国史上最も代表的な王羲之の曲水の宴が行われることになります。しかし、この時代、北方の遊牧騎馬民族(匈奴(きょうど))が勢力を増し、万里の長城を超えて攻め入り、ついに漢民族は、異民族に有史以来はじめて中原、すなわち黄河流域をあけわたすことになります。その当時、人々の心の中に、あきらめの気持ちが漂いはじめます。そのため、王羲之は、蘭亭序の中で人の生死という命題を問い、生きぬくことであきらめに似た気持ちを一掃し、漢民族に受け継がれてきた伝統行事(曲水の宴)を通し、漢民族の誇りを取り戻そうとしたのです。この宴は、日本でも貴族の間でも行われるようになります。最後の遣唐使十八番目に同行し、現在では各地の学問の神様として天満宮に祀っられている菅原道真公は、第五十九代宇多天皇と西暦890年旧暦3月3日宮中での曲水の宴に参宴しています。そこで、書聖王羲之の蘭亭の宴に思いをよせた詩歌を詠んでいます。「風向になげうち渡りて 海濱に臥(ふ)せりき 憐れむべし 今日佳辰に遇ふこと 近く臨む桂殿 廻流の水 遥かに想ふ 蘭亭 晩景の春(以下略)」平安貴族にとって曲水の宴は、当時最大のエンターテインメントだったのです。

平安貴族の女性によって流し雛の誕生

菅原道真公の詩歌などからもうかがわれることは、曲水の宴の古事や、王羲之の書などは、平安貴族の社交場の会話の中で常に語られていたということです。この当時は、まだまだ男性社会のため女性は曲水の宴に参加することはできませんでした。また、貴族の中でも階位が五位以上でなければ参加ができないなど平安貴族の女性たちは、不満に思っていたでしょう。宴の中で十分に詩を読むだけの才能がある女性たち、中でも世界最古の女性文学「源氏物語」を書いた紫式部や、随筆「枕草子」を書いた清少納言などは特に参加したかったことでしょう。そうした男性社会の枠組みに入れない優れた平安貴族の女性達によって曲水の宴は、すべての女性が行うことができる流し雛として生まれ変わります。流し雛は、曲水の宴と同じ3月3日に、盃の代わりに、男女一対の人形を、女児の幸せと無病息災を願って、川に流す行事となります。男女一対の人形には、男女の永遠の愛を願う女性の思いが込められています。平安貴族の女性によって世界的にも類を見ない、女性文化の行事が誕生したのです。流し雛は、女児の幸せと無病息災を願う行事として普遍性を持って日本各地に広がります。そして、今日でも3月3日のひな祭りは、世界最古の女性文化として連綿と受け継がれています。いつの日かユネスコの世界無形文化遺産に登録されることを願っています。

さて、今日おひなさまを制作している女流作家は、「ひなまつり」をどのように考えているのでしょう。

アート&デザイン後藤由香子「夢のつばさ」より 日本には「Girls Festival」がある!!

日本には「ひなまつり」がある!!外国のお友達に自慢できるいちばんのお話です。アメリカ、フランス、オーストラリア。私が出会った女の子たちは、みんな目を輝かせてひなまつりのことを知りたがりました。女の子が主役になって、家族から贈られた「おひなさま」を飾る。お姫様は千年以上前のクラシックなドレスを着て、人生で最高の夢のような瞬間が表現されている。「愛」をテーマにした、ひとつの国の、ひとつの文化がずっと家庭の中で続いている。それは、奇跡のようなファンタジーです。そして、おひなさま・・・贈り主となった家族からのせつないほどの愛情が込められています。「幸せになってね」という、大きくて深い願い。ひなまつりの、本当の素晴らしさは、ここにあります。光のような速さで、物事がめまぐるしく変わっていく時代です。千年以上にわたって、ゆったりと時間に磨かれたひなまつりが、現代の人々に生きるともしびを与えてくれるように思います。まずは、「楽しむ」ことから始めたい。伝統は「現在(いま)」を生きていると思うのです。

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追記 三国志と卑弥呼そして王羲之の関係

曲水の宴は、昭王の春秋戦国時代、秦の始皇帝の時代、その時代を終わらせた項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)の争いの時代、劉邦が天下を制し築いた漢王朝の時空を超えて500年後、世に有名な三国志の時代を迎えます。魏(ぎ)の曹操(そうそう)、呉(ご)の孫権(そんけん)、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)が壮絶な戦いを繰り広げる治乱興亡の時代です。その中で劉邦の血を引く漢王朝の末裔(まつえい)劉備を支え、国力が魏の七分の一しかない蜀の国を守り、法と秩序ある平和な世の中を目指した軍師、諸葛孔明(しょかつこうめい)が活躍したのもこの時代です。今日多くの人々に三国志の物語は愛読されています。登場人物八千人以上という壮大なスケールの物語です。この時代、魏の国で旧暦3月はじめの巳の日に行われていた上巳の節句が、3月3日に行われるように定められます。蜀の天才軍師諸葛孔明が最後に戦ったのは魏の国でした。そして、3月3日を上巳の節句と決めたのは魏の曹操の長男曹丕でした。この群雄割拠のサバイバルレースが展開されていた時代に流觴曲水の宴は大切な宮中行事として催されていたのです。

上巳の節句を3月3日と固定した魏の武帝曹丕もまさか約1800年後の日本で、この節句が雛祭りとして祝われることになるとは想像もしなかったことでしょう。

魏の国は、現在の中国の中央にあたる黄河流域中原を支配していました。また、邪馬台国の卑弥呼が使いを出したことでも知られています。魏の曹操は、政治家として有能なだけでなく文学にも造詣(ぞうけい)が深かったことで有名です。そして、その息子曹丕(そうひ)、曹植(そうしょく)は、その影響を受け文学に有り余る才能を示しました。のちに魏の武帝となる曹丕は、「文章は経国の大業にして不朽(ふきゅう)の盛事(せいじ)なり」と、文章の独立を宣言し、文章(文学)は国を治めることにも匹敵する立派な仕事であると言いきりました。また、その弟である曹植は、中国古典文学の最高傑作の一つと言われる「洛神賦(らくしんふ)」という詩を残しています。その詩は、中国絵画史上で最初の偉大な画家といわれる顧愷之(こがいし)の傑作の一つ「洛神賦図(らくしんふず)(下絵図)」として描かれています。「洛神賦」は、魏の都洛陽を流れる洛水を舞台に、曹植が洛水の女神とかなわぬ恋をする悲恋の詩です。それは、恋する女性を兄に奪われた曹植の悲恋が生んだ詩でもありました。2世紀の初め、この国に、邪馬台国の卑弥呼が使いを出します。魏の明帝曹叡は卑弥呼に対し親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えています。魏の国は、諸葛孔明に幾度となく戦いを挑まれ、その間隣国の遼東半島を治めることができませんでした。遼東半島経由で魏の国に行く事が難しく、邪馬台国の卑弥呼は、諸葛孔明が倒れるまで使いを出すことができなかったのです。魏の明帝は、卑弥呼の使者に金印を送ると同時に宮中行事の曲水の宴を伝えました。この文学が急激に開花した魏の国で曲水の宴もさらに貴族文化の粋とされる雅な遊びとなります。この魏の国での文学の開花には、書の歴史が、大きな役割をしめています。書がこの時代急速に進歩します。そこには、筆記具と紙の普及がかかわってきます。まず、前漢時代の紙が、甘粛省天水市(かんしゅくしょうてんすいし)で見つかりました。現在最古の紙の出現です。その後、後漢の終わりに紙の製法が改良され、古くから使われてきた毛筆とがかみ合い、急速に書の世界が開花します。紙が考案されるまでは、曲水の宴も木簡(もくかん)、竹簡(ちくかん)に詩が書かれていました。この書の画期的な進歩が、多くの書体を生みだすことになります。

三国志の時代は、最終的には三国のいずれの国でもなく蜀の軍師、諸葛孔明と五丈原で戦った魏の軍師、司馬仲達の孫司馬炎が統一します。司馬炎が統一した晋の国も30年で滅ぶことになります。それは、北方騎馬民族が万里の長城を乗り越えて攻めてきたからです。北方騎馬民族の多くは今のモンゴルの人々です。朝青龍や白鳳に象徴される身体能力の優れた人々が、騎馬に乗って攻めてくるわけですから脅威であったことでしょう。この脅威が万里の長城という六千キロもの城壁を建造する原動力になったわけです。しかしながら、漫画キングダムの時代から500年後、漢民族は北方騎馬民族に攻め込まれ、中元を明け渡し黄河を渡りついには長江をも渡り、過っての敵地である呉の都、江南、現在の南京に落ちのびることになります。この時、南に落ちのびることを皇帝に進言したのが王羲之の父王曠(おうこう)でした。王曠は、王羲之の幼い頃に匈奴軍との戦いに負け、捕虜になりました。その当時、虜囚の身は、死ぬことより恥じとされていました。そのため、幼い頃から王羲之は、異民族に対する憤りと憎しみを生涯忘れることなく持ちつづけることになりましす。会稽の宴の少し前には、護軍将軍の地位につき、北伐(ほくばつ)の機会を狙える立場にもなりました。しかし、北伐の機会は訪れず、北方騎馬民族を撃ち中原を奪回することはできませんでした。王羲之は、政治的、軍事的にも明らかに、北方騎馬民族に圧倒されている中で、優位を見いだし、自分たちが優位を誇れるものはなにかを模索します。そこで、自らの存在を賭けるに足るものとして信じ、よりどころとしたものこそ、洗練に洗練を加えた漢民族の伝統文化の曲水の宴だったのです。現在の南京を都とした東晋王朝の中で書生王羲之は、漢民族に受け継がれてきた伝統行事(曲水の宴)を通し、漢民族の誇りを取り戻そうとしたのです。その思いは、中国では、唐の時代に受け継がれ、漢民族は中元を奪回することに繋がります。そして、日本でも平安貴族の雅な宴となり盛大に行われるようになります。

追記 曲水の宴と天神祭り

道真公没10数年後、大阪天満宮で曲水の宴が、豪快にも小川ではなく大川ではじまります。杯の変わりに、船に大勢の人を乗せ、道真公を祀った御輿(おみこし)を乗せた神船も杯の代わりに浮かべ、水納祭としました。。そして、旧暦の3月3日ではなく、時期も梅雨が終わり、台風が多発する夏に、大阪の盛大な祭り文化として誕生します。平安時代は、日本の歴史の中で唯一、死刑のなかった時代でした。特にこの時代、人は死後も人を呪い祟ることができると強く信じられていました。菅原道真は、民間出身でありながら右大臣まで昇りつめた人物です。菅原道真の立身出世を嫉む者も多くいました。そうしたことから、太宰権師に左遷されてしまうことになります。2年後の903年、帰郷の日を待ち望みながら失意の内に五十九歳の生涯を閉じてしまうことになります。その後、菅原道真を左遷したであろう貴族達はおろか皇太子までが亡くなります。さらに、会議中の長岡京清涼殿に雷が落ち死傷者を出します。ここに至って、これは、菅原道真の祟りに違いないと考えられました。そのため長岡京の都はたった10年で終わることになります。そして菅原道真公は、雷と結びつけて祭られるようになります。その後、道真公が祭られた天満宮では、道真公の怨念を鎮めるために、宮中行事の中で道真公が好んだとされる曲水の宴を行うようになります。今日、太宰府天満宮では、そのままの宴で残り、前述に記しましたとおり大阪の天満宮では天神祭り船渡御(ふなとぎょう)として形を変え、7月25日に行われています。

曲水の宴は、ひな祭りとして生まれ変わるだけでなく、日本の祭りとしても生まれ変わっているのです。

参考文献

「NHKスペシャル故宮至宝が語る中華五千年」第一巻・第二巻  陳舜臣

                               阿辻哲次  

                               NHK取材班

                               NHK出版

「史記」第一巻~第九巻  横山光輝 小学館

「項羽と劉邦」上・中・下 司馬遼太郎 新潮文庫

「三国志」第一巻~第八巻  吉川英治 講談社

「空海の風景改版」上・下 司馬遼太郎 中公文庫

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