- 雛人形
人形のモリシゲ
平安春峰(ドールコーディネーター)
人形のモリシゲ
平安春峰(ドールコーディネーター)
ーー目次ーー
・ 序文:文明と文化、そして日本人にとって
雛人形とは
・① 雛祭りの起源:「流觴曲水の宴」の誕生(人間
と自然の関係)
・② 流觴曲水の宴:季節が定まり「上巳の節句」
へ
・③ 上巳の節句:魏の時代に「旧暦三月三日」と
制定
・④ 書聖・王羲之による蘭亭の宴と『蘭亭序』
・⑤ 伝統文化(流觴曲水の宴)消滅の危機
・⑥ 書聖・王羲之の『蘭亭序』、日本へ渡る
・⑦ 日本における最古の流觴曲水の宴
・⑧ 遣唐使が平安貴族に与えた影響
・⑨ 流觴曲水の宴から「流し雛」への軌跡
・⑩ なぜ「流し雛」は女性により、女の子の行事
となったのか
・⑪ 人形のはじまりとその歴史
・⑫ 曲水の宴の流れと日本の人形の変遷
・すべての女性が楽しむお雛さま
・沖縄サミット記念二千円札と雛人形の関係
・雛人形は経国の大業にして不朽の盛事なり
・ あとがき
・参考文献
(雛人形八つの役割 その一)
Contents
文明と文化の違いについて、故・司馬遼太郎先生は次のように定義づけています。
「文明は、『だれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの、機能的なもの』をさすのに対し、文化は、むしろ不合理なものであり、特定の集団、たとえば民族においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまり普遍的でない。
たとえば、青信号で人や車は進み、赤で停止する。この取り決めは世界に及ぼしうるし、現に及んでいる。普遍的という意味で交通信号は文明である。
逆に文化とは、日本でいうと婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいいという合理主義は、ここでは成立しない。不合理さこそ文化の発光物質なのである。同時に文化であるがために美しい。」
時として人間は、文化を不合理で不必要なものとして考えてしまうことがあります。日本では明治維新の廃仏毀釈や、隣国・中国の文化大革命などがその例です。
私は大阪の松屋町で人形店を経営しています。ある社員の話ですが、高校を卒業後に島根県から大阪に出て当社に就職し、三年後に辞めていった若者がいました。辞める理由は忘れてしまいましたが、「雛はなくても子は育つ」という名言を残して去っていきました。私は、若い世代の中に雛人形に対してそのような捉え方をする者がいることを知り、残念な思いをしました。
雛人形が結ぶ親子の絆と心の平安
一方で、これとは全く反対の出来事もありました。
私の近所に、八十歳近いお歳でありながら現役で会社を経営されている裕福な老夫婦がいらっしゃいます。海外の取引先へのお土産によく日本人形を買ってくださるのですが、ある時、日本人形ではなく高額な雛人形を購入されました。「どなたのものですか」と尋ねると、「娘に」とおっしゃいました。私はお孫さんに贈られるのだと思い、近所ということもありご自宅へお届けにあがりました。
すると仏間に通され、「仏壇に向けて飾ってほしい」と頼まれました。実は、五十年ほど前に二十歳で亡くされたお嬢さんのための雛人形だったのです。奥様の話では、ご主人はお嬢さんを亡くされてからも必要なものをいろいろと買い揃えられ、何十年たった今でも正月にはお年玉を仏壇に供えていらっしゃるとのことでした。そして今回は、「娘に雛人形を買ってあげていなかった」ことに気づき、買い求められたというのです。
私は仏壇に手を合わせながら、親と子の絆を強く結びつける雛人形の歴史の重みを感じるとともに、このお雛様がご主人の悲しみを少しでも癒やしてくれるよう心から願いました。
また、数年前、日ごろより大変お世話になっている会社の社長様の奥様からお電話をいただきました。「ご自分がお持ちの雛人形に似合う部品を揃えてほしい」というご相談でした。戦時中、お父様のお仕事の関係で中国に生活されていた奥様は、終戦間近の情勢不安の中、なんとか日本へ戻られましたが、その時に雛人形十五人以外の道具や飾り段をなくされてしまったそうです。
その後、多忙な生活の中で雛人形を飾ることもなく数十年が過ぎ、還暦を迎えられるようになってようやく多少の時間的余裕ができ、「雛人形を飾ってみたい」と思われたようです。ご主人も賛同され、奥様の還暦のお祝いに費用を出されることになりました。
当日は人形と道具を合わせるために飾り付けに伺いました。その時、玄関で奥様は赤い色の衣装で迎えてくださいました。還暦の赤と雛人形の毛氈(もうせん)の赤をイメージされたのかは分かりませんが、その日の雰囲気にぴったり合った衣装でした。何十年ぶりかに一揃いの飾りとしてお雛さまと対面される思いが伝わると同時に、物事に接する細やかな心遣いに感動しました。雛人形は、年齢を問わず日本の女性に愛されているのです。
現代社会における文化の役割
多忙な現代社会の中で日々の仕事や生活に追われている現代人にとって、かつての元社員が言ったように「雛はなくても子は育つ」という現実論的な考え方をするのも、致し方ないことかもしれません。現に、他国では雛人形なしで子供は育てられています。
しかし、文化の役割は、人生でふと立ち止まった時に、現実論では計り知れない大切な役割を精神(心)に及ぼすところにあります。ふと立ち止まった時に振り返るものがあるのと無いのでは、大きな違いです。
亡くなられたお嬢さんのために雛人形を買い求められたご主人も、今までのものでは得ることのできない心の平安を得られたに違いありません。また、先ほどの奥様と同じように、雛人形を飾る機会をなくし納戸にしまわれたままの方も、全国にたくさんおられることでしょう。しかし、いつの日か必ずご自分のお雛さまと素敵な再会をされると信じています。文化とは、その文化を所有する民族の「心のふるさと」でもあるからです。
世界に誇る「松屋町筋」と、現代に息づく少女の心
大阪・松屋町には、この伝統文化商品である雛人形を販売して商売が成り立っている店舗が四十件あまり軒を連ねています。生活必需品でもない初節句のお祝い人形を販売する店が、大阪市中央の南北を代表する大通りの一角を担っている――このような通りは、世界的にも例を見ないのではないでしょうか。
御堂筋、堺筋、四つ橋筋、谷町筋に見られる企業や商店(デパート、銀行、証券会社、電気街など)は世界のどの国に行っても見られますが、伝統文化商品を販売する店が大都市の一角を占めているなどということは他国にはありません。この意味から、松屋町筋は「世界に誇れる数少ない伝統文化ストリート(アベーニュー)」と言えます。
この大阪・松屋町で、私は実際に雛人形を販売しています。
ある年の雛人形シーズンの日曜日、そのシーズンで一番多くのお客様が来店された日のことです。小学校五年生の女の子とお母様が来店され、一階の店内を軽く回って出て行かれようとしました。私は少し気になり、「何かお探しですか」と声をかけました。するとお母様が、「この子のお小遣いで買えるような雛人形を探しに来たのですが、どうも無いようですので、改めて出直します」とおっしゃいました。
たまたま店の二階の踊り場に、海外へのお土産などを展示しているコーナーがあり、そこに二千円前後の焼き物でできた雛人形が二点ほど飾られていました。私はとりあえずそこへご案内し、紹介しました。すると女の子は、「私のお小遣いで買えるお雛さまがあった!」と大変喜んでくれたのです。
帰り際にお母様は、「この子が生まれた時に雛人形を買ってあげることができなかったのです。急に、自分の机の上に飾れるような雛人形が欲しくなったようです。この子のお小遣いで買える雛人形があってよかったです」と笑顔で帰っていかれました。
私は、女の子がお小遣いで買える雛人形があって良かったと思うと同時に、小学校五年生の女の子が「雛人形を自分の机の上に飾りたい」と思う心を持っていることに、目頭が熱くなる思いがしました。そして、女性の雛人形に対する思いは、昔にもまして現代の小学生の女の子の中にもしっかりと受け継がれていることを改めて認識しました。
現代社会の中で、生活必需品でもなく、決して安価なものでもない雛人形を買い求める日本人。そして、一部の人の趣味的な文化でも宗教的な意味合いでもなく、年中行事として生活の中に連綿と受け継がれてきている雛人形。
日本人にとって、雛人形とはいったいどのようなものなのでしょうか。
私は小さい時より今日まで、雛人形によって生かされてきました。そして数年前より、「この雛人形は、どうして生まれてきたのだろうか」と改めて考えるようになってきました。
雛人形の起源には諸説あります。「二千三百年の時空の旅」と称し、長い歴史背景の中で雛人形が生まれてきた軌跡をお伝えできればと思います。
(写真上から:万里の長城1985年、1999年同場所、還暦のお雛様)
雛人形の起源は、万里の長城が築かれた二千三百年前にさかのぼることができます。
漢民族は北方騎馬民族より国を守るために万里の長城を築きました。一方、平安貴族の女性は女児を災いや病気・悪癖から守るために「流し雛」の行事を誕生させました。
人間は何かを守るために、過去においても現代においても、何かを造り、何かを誕生させてきたのです。
(雛人形八つの役割 その二)
雛人形の起源には諸説あります。約二千三百年前、人々は小川のほとりにたたずみ、思いにふけりました。「この水はどこから生まれ、どこへ消えていくのだろうか」と。
今日、誰もが川の水は海に流れ、蒸発し、雲となり、雨となり、また川に流れることを知っています。しかし、今も昔も人間は自然を完全に予測することはできず、その前では無力であることに変わりはありません。自然の摂理はすべての生命に大いなる恵みをもたらす一方で、今なお予測できない天災が起こり、人々を苦しめています。近年でも、阪神・淡路大震災が起こり、甚大な被害が出ました。
科学技術の進歩により、人間は一時、自然に対しておごり高ぶっていたところがあったのではないでしょうか。この大震災で、私たちは計り知れない自然の猛威を改めて思い知らされることになりました。このような超自然現象の前では、現代の私たちも、二千三百年前の人々も無力であることに変わりはありません。おごり高ぶった気持ちは打ち消され、素直な気持ちに立ち戻ると、「自然は人間の上にある存在であり、自然こそが神々であり、人間は自然の一部でしかない」とあらためて悟ることになったのです。
その思いこそが、「流觴曲水の宴」という行事が中国で起こり、日本では雛人形として今日まで連綿と受け継がれてきた由縁でもあります。
阪神・淡路大震災などの特異な大災害は別としても、人間は昔から、気候の変わり目ごとに自然の存在を強く意識してきました。季節の移り変わりは多くの恵みをもたらす一方で、病気や悪癖などの災いももたらします。こうした背景の中で、いにしえの人々が小川のほとりにたたずみ、どんな思いにふけったか想像してみてください。
水面を見つめながら、それを神の業(わざ)と考え、人の数奇な人生を水の流れに置き換えて思いにふけったのではないでしょうか。そしてその思いは自然発生的に形をとり、約二千三百年前――中国の秦の始皇帝が天下を統一する前、春秋戦国時代の後半に、小川のほとりで思いにふけるだけでなく、一つのルールを持つ「宴(行事)」へと発展しました。
それは、蛇行した小川のほとりに並んで座り、自分の前に酒を注いだ杯が流れてくるまでに詩を詠み上げなければならないというものです。もし詠み上げられなければ、杯のお酒を飲み干さなければならない――そんな優雅な宴でした。その宴こそが「流觴曲水の宴」と呼ばれ、ここに雛人形二千三百年の時空の旅の出発点、そして「流し雛」につながる行事が生まれたのです。
この宴を最初に行ったのは、秦の昭王(しょうおう)だと言われています。宇宙から見える人類唯一の建造物・万里の長城を完成させた秦の始皇帝が政王(せいおう)として王位に就いたのは、紀元前246年のことです。そして広大な中国を統一し、最初の「始皇帝」となったのは紀元前221年でした。
秦の昭王は、始皇帝が王位に就く五年前の紀元前251年に亡くなりましたが、その在位は五十六年という長期に及びました。春秋戦国時代の覇者として近隣諸国から恐れられた人物であると同時に、政治や戦術の手腕だけでなく、文化行事にも造詣が深い人物でした。生きるか死ぬかの極限状態にあった戦国時代の中で「曲水の宴」を考案できたその才覚こそが、王道の精神であったのかもしれません。中国の歴史を振り返っても、伝統文化を大切にする君主こそが名君と呼ばれているのです。
(書聖王羲之が催した流觴曲水の宴断片図 作者不詳 / 平城京東院庭園跡)
春秋戦国時代の遺跡からは、「觴(しょう)」と呼ばれる曲水の宴に使われた漆器の杯が多く出土しています。觴とは、楕円形をした深めの杯の縁に平たい耳がついた独特の形をしており、水にしっかりと浮くよう工夫されていました。その形状から「羽觴(うしょう)」とも呼ばれています。
後世の画家たちが描いた曲水の宴の絵を見ると、觴を直接川に浮かべるのではなく、竹の盆や蓮の葉にのせて流している様子が描かれています。また、曲水の宴として現在の形になる前は、人の体の代わりに人形(ひとがた)を流したとも言われています。曲水の宴は、人々があらゆるけがれを払う「禊(みそぎ)の行事」でもあったのです。さらに中国では、この宴は祖先の魂を迎える禊の日としても、とりわけ大切な行事となりました。
そして、この行事は特定の季節の節目に行われるようになっていきます。厳しい冬が過ぎ、穏やかな春を迎える時期は寒暖差が激しいため、「今一度、体調や気候の変化に気をつけなければなりませんよ」という危険信号的な役割を持った行事として、旧暦三月初めの巳(み)の日(毎年三月初めの巳の日は、十二支の巡り順によって変わります)に行われるようになりました。日本であれ中国であれ、四季の気候に大きな変わりはありません。この上巳の日に、流觴曲水の宴が行われるようになったのです。
こうして、曲水の宴は「上巳(じょうし)の節句」と呼ばれるようになります。すなわち、上巳の節句の行事として曲水の宴が行われるようになるわけです。
これは「雛人形二千三百年の時空の旅」の歴史の中でも、非常に大切な言葉の登場です。なぜなら、現在でも雛祭りは「上巳の節句」と呼ばれているからです。
(雛人形八つの役割 その四)
春秋戦国時代からはじまったとされる流觴曲水の宴は、秦の始皇帝の時代、それを終わらせた項羽と劉邦の争い、そして劉邦が天下を制して築いた漢王朝へと受け継がれました。その間、約五百年の時流の中で、漢民族の大切な伝統行事としてさまざまな人々に連綿と催されてきました。
そして、前漢・後漢と約四百年続いた漢王朝がついに崩壊し、世に名高い「三国志」の時代を迎えます。魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備が壮絶な戦いを繰り広げた治乱興亡の時代です。その中でも、劉邦の血を引く劉備を支え、国力が魏の七分の一しかない蜀を守りながら法と秩序ある平和な世の中を目指した諸葛孔明などの存在はあまりにも有名です。
今日、多くの人々に愛読されている『三国志』は、登場人物が八千人以上にも及ぶ壮大なスケールの物語です。しかし、その多くは口伝えから生まれた『三国志演義』をベースにした小説であり、原典である『正史 三国志』まで読んだ人は少ないかもしれません。『三国志』を読まれた方は、この時代の登場人物や緊迫した状況を思い出してみてください。まさにこの時代に、それまで「三月始めの巳の日」に行われていた上巳の節句が、「三月三日」へと固定されたのです。(なお、諸葛孔明が最後に戦った相手もこの魏の国でありました。)
そして、この「三月三日を上巳の節句とする」と定めたのは、魏の曹操の長男・曹丕(そうひ)でした。小説『三国志』には書かれていないことですが、群雄割拠のサバイバルレースが展開されていたこの時代にも、流觴曲水の宴は大切な宮中行事として催されていたのです。
三月三日を上巳の節句と定めた魏の文帝・曹丕も、まさか約千八百年後の日本で、この節句が「雛祭り」として盛大に祝われることになるとは想像もしなかったことでしょう。これは「雛人形二千三百年の時空の旅」のなかでも非常に重要な歴史的事柄です。なぜなら、日本において三月三日が雛祭りとなった直接の起源でもあるからです。
(雛人形八つの役割 その五)
魏の国は、現在の中国の中央にあたる黄河流域の中原を支配し、邪馬台国の卑弥呼が使者を送ったことでも知られています。魏の曹操は、政治家として有能なだけでなく、文学にも造詣が深いことで有名でした。その影響を受け、息子の曹丕(そうひ)や曹植(そうしょく)も文学において優れた才能を発揮しました。
のちに魏の文帝となる曹丕は、「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」と文学(文化)の独立を宣言し、文学や文化は国家を統治することにも匹敵する立派な仕事であると言い切りました。また、その弟である曹植は、中国古典文学の最高傑作の一つと言われる『洛神賦(らくしんふ)』という詩を残しています。
この詩は、魏の都・洛陽を流れる洛水を舞台に、曹植が洛水の女神とかなわぬ恋をする悲恋の物語です。恋する女性を兄(曹丕)に奪われた曹植の切ない思いが、この詩を生み出しました。
このように、魏の国には多くの優れた詩が残されています。しかし不思議なことに、蜀の劉備や諸葛孔明の詩はほとんど残っていません。文章として残っているのも、諸葛孔明の『出師表(すいしひょう)』くらいです。国力が魏の七分の一しかなかった蜀を守り抜いた天才軍師・孔明であっても、さすがに詩を残すほどの文化的な余裕を蜀の国に持つことはできなかったのでしょう。そして、この文学が急激に開花した魏の国で、流觴曲水の宴もさらに貴族文化の粋とされる雅な遊びとなっていきました。
卑弥呼と魏、そして書の歴史的進化
2世紀初め、倭国の女王・卑弥呼が魏に使者を送ります。魏の文帝・曹丕が卑弥呼に対し、「親魏倭王」の金印を与えたことはあまりにも有名です。
余談ですが、魏は諸葛孔明に幾度となく戦いを挑まれたため、その間、隣国の朝鮮半島を十分に治めることができませんでした。そのため朝鮮半島経由で魏へ行くことが難しく、邪馬台国の卑弥呼は、諸葛孔明が没するまで使いを出すことができなかったのです。魏の皇帝は卑弥呼の使者に金印を送ると同時に、宮中行事である曲水の宴の文化も伝えたと考えられます。今日でも国家が海外の要人を迎えた際には、自国の文化を紹介するのが常だからです。つまり、日本最初の国家誕生とほぼ同時に、この宴の文化が伝わったことになります。
この魏の国における文学の開花には、「書」の歴史の大きな進歩が深く関わっています。書がこの時代に急速に進歩した背景には、筆記具と「紙」の普及がありました。まず、前漢時代の紙が甘粛省(かんしゅくしょう)天水市(てんすいし)で見つかっており、これが現在確認されている最古の紙の出現です。その後、後漢の終わりに紙の製法が改良され、古くから使われてきた毛筆と組み合わさることで、書の世界は急速に開花しました。紙が考案される以前は、流觴曲水の宴でも木簡や竹簡に詩が書かれていたのです。
この書の画期的な進歩は多くの書体を生み出し、中国では絵画よりも書が上位に置かれ、芸術の頂点を極めることになりました。その書を芸術の域まで高め、頂点を極めたのが「書の聖人」と称される王羲之(おうぎし)です。
書聖・王羲之は、並々ならぬ書の研鑽のなかから「行書体」を生み出しました。「書は人なり」という言葉がありますが、王羲之はまさに生涯を賭けて、この言葉を身をもって示した人物でした。そして王羲之は、後世に名を残す「会稽山陰(かいけいさんいん)の蘭亭(らんてい)」で流觴曲水の宴を催します。当時、王羲之は50歳。後にも先にも、彼の生涯を通じてただ一度の流觴曲水の宴でした。
天下第一の行書『蘭亭序』の誕生
この宴は、東晋の永和9年(西暦353年)の旧暦3月3日、紹興酒で有名な紹興市の郊外、会稽山陰の蘭亭にて、当代の名士たち41人を集めて行われました。そこで出来上がった詩文を一冊にまとめ、その巻頭に王羲之が序文を添えました。これこそが、中国書道史上「天下第一の行書」と絶賛される『蘭亭序(らんていじょ)』です。
まさに、これは「雛人形二千三百年の時空の旅」における非常に重要な序文の登場です。なぜなら、この『蘭亭序』はのちに日本の文化人たちに大きな影響を与え、日本に流觴曲水の宴を飛躍的に広め、やがて「流し雛」へと導くこと局になるからです。
この本を執筆している時、中国へ行く機会がありました。旅行会社の方に「上海から紹興市は近い」と聞いたため、「途中で半日抜けて別行動したい」とお願いしたところ、笑われてしまいました。なぜなら、「中国の『近い』と、日本の『近い』の感覚は違う」というのです。上海と紹興市は、地図全体で見ると近くに見えますが、実際の距離は大阪と東京の間隔よりも離れており、五百キロ以上もあるのです。書聖・王羲之が催した曲水の宴の跡地を訪れる計画は、次回にお預けとなりました。
いつの日か、雛人形のルーツであるこの曲水の宴の跡地に多くの日本人が訪れ、旅行会社の企画に「雛人形二千三百年の時空の旅ツアー」ができるようになれば、こんなに嬉しいことはありません。
(中国を旅行した際のお土産店で出会った、「三国志」の英雄たちが描かれた水晶玉――水晶玉の内側を円形にくりぬいた球面に関羽、関平、周倉の関帝三代像が描かれていました)
『蘭亭序』は、「東晋の永和九年、歳は癸丑(きちゅう/みずのとうし)に在り。暮春の初め、会稽山陰の蘭亭に会す。」というあまりにも有名な書き出しで始まります。この書き出しにつづけて、会稽山陰の美しい風景、穏やかな春の気候、そして春風に誘われるようにはじまる宴の様子が描写されていきます。
次に、「人の生死」という重い命題へと話が展開されます。
「人は、宴につどい満ち足りた時を過ごしている間は、歳をとって死に近づいていくことなど考えもしない。昔の人は言った、生きることも死ぬことも、ともに大問題であると。」
ここで王羲之は、「生きることも死ぬことも同じである」という達観や、「長寿も短命も同じである」という諦めの思想を強く否定します。そして最後に、「時が流れ世の中が変わっても、この日に宴を開いた自分たちの心を読み取ってほしい」と結んでいます。
この序文の最後に込められた「自分たちの心」とはいったい何だったのでしょうか。それは、漢民族滅亡の危機の中、あえて流觴曲水の宴という民族伝統の行事を通して、今一度漢民族の誇りを人々の心に呼び覚まそうとしたことでした。そこには、次のような切実な時代背景がありました。
三国志の時代が終わり、久しぶりに中国全土を統一したのは三国の中のどの国でもありませんでした。蜀の諸葛孔明と晩年に雌雄を決して戦った魏の名将・司馬仲達(司馬懿)の孫である、司馬炎でありました。
しかし、司馬炎が興した「西晋」の国も、わずか三十年ほどで滅亡を迎えます。北方の遊牧騎馬民族(匈奴)が勢力を増し、ついに漢民族は有史以来はじめて中原、すなわち黄河流域を異民族に明け渡すことになってしまったのです。
そして漢民族は黄河を渡り、ついには長江をも越えて、かつての敵地である呉の都・江南(現在の南京)へと落ち延び、この地で東晋王朝を開いて文化を開花させました。この時、南へ落ち延びることを皇帝に進言したのが、王羲之の父・王曠(おうこう)でした。
王曠は、王羲之が幼い頃に匈奴軍との戦いに敗れて捕虜となりました。その当時、虜囚の身となることは死ぬことよりも恥とされていました。そのため王羲之は、幼い頃から異民族に対する憤りと憎しみを生涯忘れることなく持ち続けることになりました。
会稽の宴の少し前には、王羲之は護軍将軍の地位に就き、北伐(中原奪回)の機会を狙える立場にもなりました。しかし、北伐の機会はなかなか訪れず、匈奴を撃ち破って中原を奪回することはできませんでした。その当時、東晋の人々の心の中には、じわじわと諦めの気持ちが漂いはじめていました。
だからこそ王羲之は、『蘭亭序』の中で「人の生死」という命題を問いかけ、生き抜くことで諦めに似た敗北感を一掃し、伝統行事を通して漢民族の誇りを取り戻そうとしたのです。
王羲之のこの「生き抜く」という不屈の精神こそが、連綿と続いてきた漢民族の伝統文化を消滅の危機から救ったと言えます。なぜなら、異民族は侵略の際に必ず文化を自分たちのものに置き換え、先住の文化を徹底的に消滅させてしまうからです。
王羲之の願いはすぐにはかないませんでしたが、その後も約三百年間、中国では戦乱の世が続きます。漢民族が中原を完全に奪回するまでには、唐の太宗・李世民の登場を待たなければなりませんでした。しかし、王羲之の精神は『蘭亭序』を筆頭とする約二千点余りの書の中に深く込められ、約三百年後に再び大きな光を放つことになったのです。
もし王羲之の父王曠が皇帝に南へ下ることを進言しなかったならば流觴曲水の宴も約六百年間の歴史で終わったかもしれません。それは、雛祭りへの文化の流れの遮断をも意味することになります。しかしながら、歴史の数奇な運命は、最大の危機の中に一光の救いを与え、中国書道史上「天下第一の行書」を生む蘭亭の宴へと導きます。
余談ですが書聖王羲之が生まれたのは、西暦三〇三年です。そして、蘭亭の宴は、西暦三五三年の旧暦三月三日に催されました。あたかも三月三日を強調するために意図的に合わしたように三の数字が並んでいます。これは、単に歴史のいたずらでしょうか、もしくは、人的にこの宴をより劇的にするために仕組まれたものなのでしょうか。その後約三百年間、中国では、異民族の支配の中、流觴曲水の宴も空白の時を過ごします。
そして唐のはじめ王羲之の書は、蘭亭序の真筆も含め約二千点、唐の太宗李世民が、王朝の威信を賭けた文化事業として、書の収集と整理に取りかかったおりに集められました。王羲之の書の中でも蘭亭序の真筆は、唐の太宗が、最も欲したものでした。部下の蕭翼(しょうよく)に命じ死力を尽くして探さします。やつとの思い出で蘭亭序の真筆を見つけた蕭翼が太宗のもとに勇んで帰る姿が、今日絵画として伝えられています。残念なことに、西暦六四九年に太宗は臨終の床で秘宝中の秘宝であった蘭亭序を、自分の亡骸とともに埋葬するように遺言し、王羲之の約二千点の書とともに蘭亭序の真筆は永遠に地上から姿を消すことになります。すなわち現在伝えられている蘭亭序は、王羲之の真筆ではありません。太宗が模写係りに命じて精巧にうつさせた写本です。この当時、唐の都長安では、書聖王羲之の蘭亭序の真筆や収集された約二千点の書の話題で盛り上がっていたことでしょう。そして、この時期に、日本から第一回遣唐使として犬上御田鍬(いねがみのおたすき)が、派遣されることになります。犬上御田鍬が、唐の長安に留まったのは、たった二年のことです。しかしながら、その間に、書聖王羲之の蘭亭序が見つかった話題や約二千点の書に接し、感動したのではないでしょうか。また、犬上御田鍬は、蘭亭序の真筆を見た唯一の日本人であったかもしれません。その後、遣唐使の一員として入唐した山上憶良、阿倍仲麻呂、吉備真備、玄昉らは有名です。特に、吉備真備、玄昉は、多くの新しい知識やすぐれた文物を持って帰国したといわれています。その中には、蘭亭序の写本もあったことでしょう。そして、遣唐使の派遣約百年後、西暦七二六年、聖武天皇が、曲水の宴を行うことになります。ここで、雛人形二千三百年の時空の旅は、海を渡り日本国へと舞台を移すことになります。
(江戸時代コレクション 上 稚児鎧 中 恵比寿 大黒 下 立ち童子)
西暦726年に聖武天皇が行った曲水の宴よりもさらに遡り、日本における最古の宴の記録が登場します。
『日本書紀』には、第二十三代・顕宗(けんそう)天皇が西暦485年の旧暦3月2日に曲水の宴催されたと記されています。「三月上巳、後苑に幸して曲水の宴きこしめす」とあり、また「公卿大夫(くぎょうたいふ)・臣・連・国造(くにのみやつこ)を集めて宴を為す」とあることから、すでに宮中行事として取り上げられていたことが分かります。
これは王羲之の蘭亭の宴より百三十二年後のことです。ただ、東晋の時代にはすでに曲水の宴は旧暦三月三日と定められていました。そのことから考えると、この当時の曲水の宴は、邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を送った際に伝わったものと言えます。
もっとも、卑弥呼の使者が帰国したのは、魏の文帝・曹丕が上巳の節句を三月三日に定める前でした。三月三日に定まる前後は別としても、卑弥呼の時代に曲水の宴の文化が日本に伝わり、何らかの形で催されていた可能性は十分にあります。しかし、歴史的な書物に書き記されている時点をはじまりとするならば、この顕宗天皇の記録が「日本最古」と言えます。
そして、旧暦三月三日に行われた曲水の宴としては、『続日本書紀』において西暦726年に第四十五代・聖武天皇が南苑で旧暦3月に曲水の宴を催したと記されているものが最古ということになります。
平城宮跡での奇跡的な発見と菅原道真公の導き
たまたまこの本を執筆している最中に、信じられないようなタイミングで、この日本最古の宴の跡地が出土しました。それは西暦1999年7月26日、奈良市の平城宮跡・東院庭園に隣接する北西部の敷地でのことです。その日の夜のニュースや翌日の新聞各紙で大きく紹介されました。そこが平城宮の南苑であれば、『続日本書紀』の記述と完全に一致するわけです。
そして、その日は大阪の日本三大祭りの一つ「天神祭」の翌日でもありました。そこには、実に数奇な歴史のいたずらを感じざるを得ません。なぜなら、天満宮は菅原道真公を祀っており、天神祭は道真公が好んだとされる「曲水の宴」を偲んで始まったからです。もしかすると、道真公がこの日本最古の宴跡の出土を導いてくれたのかもしれません。
天満宮に祀られている菅原道真公は、最後の遣唐使(第18回)に選ばれるほど学問に長けた平安貴族でした。そうした背景から、第五十九代・宇多天皇と西暦890年の旧暦3月3日に宮中での曲水の宴に参宴し、書聖・王羲之の蘭亭の宴に思いを馳せて次のような詩歌を詠んでいます。
「風向になげうち渡りて 海濱に臥せりき 憐れむべし 今日佳辰(よしとき)に遇ふこと 近く臨む桂殿 廻流の水 遥かに想ふ 蘭亭 晩景の春」(以下略)
そして道真公が亡くになられてから十数年後、大阪天満宮で流觴曲水の宴が、小川ではなく豪快にも大川(大川・淀川水系)で行われるようになりました。杯の代わりに船に大勢の人を乗せた「船渡御(ふなとぎょ)」となったのです。行事に込められた思いの本質は「人間と自然の関係」にほかなりませんが、曲水の宴の形式は大きく変化しました。
時期も、梅雨が終わり台風が近づく頃へと移り変わり、大阪らしく盛大な日本独自の祭り文化として誕生したのです。
道真公の怨念と「天神さん」を飾る風習
平安時代は日本の歴史の中で唯一、表向き「死刑のなかった時代」でした。特にこの時代、人は死んでからも人を呪い、祟ることができると強く信じられていました。
菅原道真は民間出身でありながら右大臣まで昇りつめた人物ですが、その立身出世を妬む者も多く、ついには太宰権帥(だざいのこんのそち)へと左遷されてしまいます。そして二年後の903年、帰京の日を待ち望みながら、失意のうちに59歳の生涯を閉じました。
その後、道真公を左遷した貴族たちは次々と亡くなり、さらには会議中の清涼殿に雷が落ちて死傷者が出るという事態が起きました。ここに至って人々は、「これは菅原道真の祟りに違いない」と恐れるようになったのです。道真公は恐ろしい「雷(天神)」と結びつけられ、その怨念を鎮めるため、宮中で彼が最も好んだ「流觴曲水の宴」を起源とする祭祀が行われるようになりました。
今日では、太宰府天満宮にはその原型が残り、大阪の天満宮では「天神祭の船渡御」としてその形を変えて受け継がれています。また、天神祭が7月25日に行われるのは、雷の多い季節であること、そして道真公の「誕生された日」「左遷された日」「亡くなられた日」がすべて25日であるからです。
私はタイミングよく、その年の天神祭の船渡御に参加する機会を得ました。そこで、道真公を祀った神輿を乗せた神船に何度かすれ違うことがありました。「道真公が曲水の宴を偲び、杯の代わりに自らを浮かべて楽しんでおられるのではないか」という現実離れした思いにふけりながら、不思議な数時間を過ごしました。それだけに、二日後の朝刊各紙の記事には大変興奮させられました。そして8月1日の日曜日、さっそく日本最古の宴跡を見に行きました。
あんなに大きく取り上げられたにもかかわらず、私が訪れた時には誰一人として宴跡を見に来る人はいませんでした。絵に描いたような美しい夏空の下で、すでに土をかぶせられた曲水の宴の跡を、所々に覗く石の塊だけがおぼろげに物語っていました。
ここで、「雛人形二千三百年の時空の旅」は、曲水の宴が日本独自の文化へと大きく進化する時を迎えます。
女の子にはお雛さま、男の子には「天神さん」
日本のある地域では、3月3日の節句に「天神さん(天神人形)」が飾られます。中には正月に飾るところもあり、女の子にはお雛さまを飾り、男の子には天神さんを飾り、あるいは女の子でもお雛さまではなく天神さんを飾るなど、地域によってさまざまな風習が残っています。
当初、私は雛人形の時期に天神さんを飾る地域や、それを販売する店があることを不思議に思っていました。しかし、道真公と曲水の宴の深い関わりから見れば、それは決して不自然なことではありません。
道真公は学者の家に生まれ、優れた学識を持つ人物として育てられました。その才能は宮中でいかんなく発揮され、死後は「学問の神様」として祀られるようになりました。その神様が最も好んだ「曲水の宴」を催す上巳の節句(3月3日)に、道真公にあやかって「子どもが学問に優れた人物になるように」「国を救い民を救う人物になるように」という願いを込めて、天神さんを祀るようになったのでしょう。
また、この時期は気候の変わり目で、病気や悪癖がはびこる時期でもあります。天神信仰の根付く地域では、そうした災いも道真公の御霊の仕業と考え、その怒りを鎮めるとともに、厄払いの上巳の節句に家へ祀ることで子供を災厄から守ろうとしたのかもしれません。
平安時代の天才・菅原道真公の生涯は波乱万丈でありました。しかしその魂は、死後も貴族から庶民に至るまで大きな影響を与え続け、今日でも「天神さん」として人々の中に深く息づいているのです。
(江戸時代コレクション・市松人形)
西暦894年、第18回目の遣唐使として菅原道真が派遣される予定でしたが、唐の政情悪化にともない中止となり、これが最後の遣唐使となりました。そして、中国の唐は西暦907年に滅亡を迎えます。
その後、中国の文化は大きく変貌を遂げることになります。しかし日本は、奈良時代から平安時代初期にかけて遣隋使や遣唐使の活躍によって導入した中国・唐の文化をいわば「凍結保存」しました。そして、室町時代のある時期に至るまで正規の国交を持たず、その間に持ち帰った唐の文化を日本独自の文化に染め上げながら、ゆっくりと「解凍」していったのです。たとえば、流觴曲水の宴は女性の上巳の節句として「流し雛」へ進化し、水との関わりが深い大阪では「天神祭」へと発展していきました。
ここで流し雛への進化を説明する前に、もう少し「遣唐使の役割」について触れておきたいと思います。後半に派遣された第16回遣唐使の一員として随行した、空海と最澄の二人です。なぜなら、この二人の天才の存在こそが、当時の平安貴族たちの大陸文化への強い執着と、それが日常生活の隅々にまで浸透していく様子を最もよく物語っているからです。
この二人の天才が遣唐使に随行したことは、日本の仏教界に甚大な影響をもたらしました。最澄の天台宗と空海の真言宗は、密教の興隆とともに加持祈祷を通じて朝廷の内部に入り込み、貴族たちの生活にも多大な影響を与えました。
空海の圧倒的な才能と遣唐使の精鋭たち
特に空海の才能は並外れたものでした。
たとえば空海は、唐の都・長安に入ってわずか五ヶ月でサンスクリット語(梵語)を習得しました。それは仏教の真髄を知るために不可欠な言語であり、当時の貧弱な日本語の語彙世界からは想像もできないほど高度で、中国語の翻訳ですら困難を極めるものでした。
当時、最新の仏教であった密教には二つの体系(胎蔵界・金剛界)があり、その両方の体系を完全に相伝されていたのは、高僧・恵果(けいか)ただ一人でした。恵果の門人は一千人いたと言われていますが、その中から恵果が「次の唯一の相伝者」として選んだのは、ほかならず日本からやってきた空海でした。この事実だけでも、空海がどれほどの並外れた才能の持ち主であったかは疑いようがありません。
空海は世界でただ一人の密教両系相伝者として、数多くの経典とともに日本へ帰国しました。また、空海は書においても卓越した才能を発揮しました。書に長けた人材が揃う中国において、唐の皇帝の勅命により宮廷の壁に揮毫(きごう)し、両手・両足・口に筆を持って同時に文字を書き上げるという離れ業から「五筆和尚(ごひつのわざ/おしょう)」の異名を授けられたとも言われています。帰国後は嵯峨天皇からも絶賛され、平安宮の東西南北の門額を、天皇、空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)の三人が分担して書き改めました。この三人がのちに「三筆(さんぴつ)」と呼ばれるようになったのは、まさにこのためです。
ここで記したいのは、いかに優秀な人材が遣唐使という限られたチャンスに選ばれて派遣されたかということです。
そして彼らは、仏教にせよ書にせよ、浅く広くではなく、限られた許された時間の中でいかに奥深く、時にはその「頂点」を極めて日本へ持ち帰ったか――。そうして持ち帰られた最先端の文化は、現代の私たちが想像する以上に、当時の人々の間で大きな話題となったに違いありません。たとえば、「流觴曲水の宴」の故事や書聖・王羲之の書に対する憧れなどは、平安貴族たちの日常会話のなかで常に熱く語られていたことでしょう。
現代に例えるなら、アメリカ文化であるディズニーランドやユニバーサル・スタジオが突如として日本に上陸したような、すさまじい衝撃と熱狂をもたらしたはずです。
男性中心の宴に対する女性たちの憧れ
こうして流觴曲水の宴は、貴族の年中行事の中にしっかりと取り入れられて定着しました。しかし当時の宴はあくまでも男性社会のものであり、現在、京都の城南宮などで見られるような十二単(じゅうにひとえ)を着た女性たちが曲水の宴に直接参加することは、まずありませんでした。
また、貴族の間でも「階位が五位以上でなければ参加してはならない」という厳しい規則がありました。蘭亭の宴の故事を描いた絵画を見ても、そこに女性の姿はありません。
しかし、流觴曲水の宴に直接参加できない平安貴族の女性たちのなかには、宴の中で詠まれるような見事な漢詩や和歌を余裕で読みこなせるだけの、卓越した文学的才能を持つ人々が大勢いました。たとえば、世界最古の女性心理描写を描いた長編小説『源氏物語』を書いた紫式部や、鋭い観察眼の随筆『枕草子』を書いた清少納言といった女性たちです。
文学的才能に恵まれた彼女たちにとって、男性たちだけで独占して行われる流觴曲水の宴は、羨ましくて仕方がなかったことでしょう。それは庶民の女性にとっても同じ思いだったはずです。極端なたとえをするならば、「今日のディズニーランドやユニバーサル・スタジオに、一部の特権階級の人間しか、しかも男性しか入場できないようなもの」だったと言えます。
ここに、「雛人形二千三百年の時空の旅」は、女性たちの手による新たな主役の登場によって、曲水の宴から「流し雛」へと大きく劇的な局面を迎えることになります。
(雛人形八つの役割 その六)
遣唐使によって、書聖・王羲之の『蘭亭序』にまつわる物語や中国の故事は、事細かに日本へ伝わりました。そして、平安貴族の男女を問わず、さらには庶民の生活のなかでも大きな話題となったのです。
『源氏物語』の主人公である光源氏も、旧暦三月三日を迎えると、書聖・王羲之の会稽山陰の蘭亭に思いを馳せ、『蘭亭序』を題材に語り合いながら宴を楽しんだことでしょう。
そして、この宴を華やかに愉しむ男性たちの姿を見て、紫式部や清少納言をはじめとする貴族の女性たちが、「私たちにも何かできることはないかしら」と考えたとしても不思議ではありません。
(京都・城南宮楽水苑の遣水では、今も曲水の宴が行われています)
「ひいな遊び」から「流し雛」へ
『源氏物語』や『枕草子』の中には、「ひいな遊び」という場面が登場します。『源氏物語』の「末摘花(すえつむはな)」の巻に「もろともに ひいなあそびをしたまふ」と記されているように、当時の貴族の間では男女一対の人形を作って遊ぶ風習がありました。「ひいな」とは、鳥のヒナのように「小さく愛らしいもの(人形)」を意味します。雛人形という言葉の語源もここから生まれたと言われています。
貴族の女性たちは、男性たちが流觴曲水の宴を行っている間、幼い女の子たちとともに「ひいな遊び」に興じて時を過ごしていました。
ところで、この上巳の節句の時期はちょうど気候の変わり目にあたり、体調を崩しやすい時期でもあります。今も昔も流感(インフルエンザなど)が流行し、多くの人々が病に苦しむ季節でした。そこで女性たちは、その季節的な試練と前述の「ひいな遊び」とを結びつけ、「女の子の身にふりかかる穢(けが)れや災いを人形に移し、無病息災を祈って川に流す」という着想を得たのです。
知識人であった紫式部や清少納言らは、曲水の宴の成り立ちやその精神についても熟知していました。彼女たちは女性ならではの独創的なアイデンティティをもって、これを新しい文化行事へと見事に開花させたのです。
そのアイデンティティの根源にあるのは、「子供を産む天命」と「その子供を大切に育て上げなければならない使命」でした。そこから、先祖を偲ぶと同時に生命の誕生を喜び、生まれた我が子が健やかに成長することを心から祈る行事を編み出したのです。それこそが、曲水の宴の精神を女性的なスタイルへと昇華させた「流し雛」でした。
「流し雛」とは、神の御業(みわざ)である川の流れに、生まれた女児の穢れや災厄を託した人形を流すことで、神に清めていただくという祈りの行事です。このような美しく深い行事を考案できたのは、当時の女性貴族を代表する紫式部や清少納言といった高潔な教養人たちであったと考えられます。
ここに、「雛人形二千三百年の時空の旅」の中でも最も重要な「流し雛の誕生」を迎えることになります。
男性社会において「曲水の宴」は、中国から伝わった雅な宮中行事の一つに過ぎなかったのかもしれません。しかし女性たちは、その「曲水の宴」という形式の殻を破り、我が子への愛を込めた「流し雛」という永遠の伝統文化を誕生させたのです。
(雛人形八つの役割 その七)
ここで、もう一つ大切な疑問があります。「流し雛」がなぜ、女児だけの行事になったのかということです。
そこには、男性たちだけが楽しむ「流觴曲水の宴」に対する、当時の女性たちのささやかな抵抗が込められていたのではないでしょうか。生命の誕生を喜ぶ気持ちも、生まれた子どもたちの無病息災を祈る気持ちも、親であれば男女を問わず同じはずです。
しかし、それが「女の子だけの行事」になった背景には、男の子に対して「あなたたちは大きくなれば、いつか(自分たちで)流觴曲水の宴ができるでしょう」という、男性社会に対する優しくも鋭い風刺が込められていたのです。曲水の宴という男性社会の枠組みに入ることができなかった優れた平安貴族の女性たちは、すべての女性たちが参加できる「流し雛」として、その姿を変えて見せたのでした。
ここに、「雛人形二千三百年の時空の旅」のなかでも特筆すべき事実があります。それは、平安貴族の女性の手によって、世界的にも例を見ない「女の子のためだけの行事」が誕生したということです。
そして流し雛は、貴族であれ庶民であれ、行うことに身分の隔たりがありませんでした。だからこそ、「平等で平和な世の中を願う女性の心」は普遍的なものとして日本各地に広がり、今なお雛祭りの行事として残っている地域が少なくありません。
流し雛の形式と、そこに込められた願い
「ひいな」とは、鳥の雛のように小さくて可愛らしい人形を意味します。鳥の「雛」にちなんで、初期の人形は鳥の巣に似たわら籠などに乗せて川に流されました。現在でも鳥取県用瀬(もちがせ)などで流し雛の行事が残っていますが、その多くは鳥の巣のようなわら籠に人形をのせて川へ流す形をとっています。
流し雛は、川から海へと流れる旅が無事にできたならば、身の穢(けが)れを人形に移した女児はその年を無病息災で過ごすことができる――というものでした。
流し雛に用いられる人形は、男女一対の形をしていました。当初は紙やわらなどで作られており、男性の人形は両手を広げて立ち、女性の人形は小さめに棒のように立つだけの簡素なものでした。しかし、その簡素な姿のなかにこそ、「男性が自分の身をもって女性を守ろうとする姿」と、「その横で静かに、しかししっかりと男性を支えようと謙虚に寄り添う女性の姿」が表現されています。その佇まいは、人間愛のすべてを物語っているかのようです。また、そこには「男女が末永く共に寄り添い、仲良く人生を送ってほしい」という、女性たちの切なる願いが込められていました。
雛祭りを彩る食べ物や飾りに込められた祈り
流し雛をルーツとして発展したお雛様の世界には、子どもたちの幸せを願うさまざまな知恵や風習が取り入れられています。
タニシや貝類(ハマグリ)に込めた願い
流し雛が定着した頃のお雛様のお膳には、よく「タニシ」が添えられました。この時期は川でタニシがたくさん獲れる季節だからです。今日でも雛祭りのお膳にタニシ料理や、あるいは地域によってサザエのつぼ焼きが添えられることがありますが、どちらにも共通しているのは「巻貝」であるということです。昔から巻貝は「願い事を叶えてくれる」と信じられており、子どもを病気や災いから守ってほしいという願いがそこに託されました。
また、雛道具のなかに一対の「貝桶(かいおけ)」が添えられることがあります。貝桶とは、平安時代の貝合わせ(現在のカルタのような遊具)を入れる器であり、中にはハマグリの貝が180個ずつ入っていました。ハマグリの貝殻は、対の殻でなければ絶対に合わないという性質を持っています。そのため、「女の子が大きくなってお嫁に行ったとき、ハマグリのように一生、旦那さまと心を合わせて仲良く暮らしてほしい」という親の願いが込められているのです。現在でも、ちらし寿司にハマグリのお吸い物が欠かせないのはこのためです。菱餅(ひしもち)
雛飾りの定番である菱餅の形は、水草の「ヒシの実」に由来しています。昔、ヒシの実は万病に効く薬草として重宝されており、病気や悪癖の多い季節を乗り切るための必需品でした。それがやがて流し雛に添えて流され、現代では雛人形に添えて飾られるようになりました。また、菱餅の色は下から「白・緑・赤」の順になっています。これは「雪が降り、芽が出て、花が咲く」という草木の成長を表しており、「子どもが健やかに、立派に育ってほしい」という親の願いが込められています。
桃の花と桜橘(さくらたちばな)
中国の伝説では、桃は「不老長寿の実」であり、その花には「悪魔を祓う力」があるとされてきました。そのため、お雛さまの横に桃の花を生けたり、前飾りの三宝に徳利を置いて桃の花を挿したりするようになったのです。旧暦3月3日頃に桃の花が咲くことから、雛祭りは別名「桃の節句」とも呼ばれます。
また、京都御所の紫宸殿(ししんでん)の庭に天皇から見て左側に「左近の桜」、右側に「右近の橘」が植えられていることにちなみ、お雛さまにも「桜橘」が飾られるようになりました。
雪洞(ぼんぼり)が醸し出す「はんなり」とした温もり
そして現代の雛人形の飾りにおいて、最も象徴的な存在が「雪洞(ぼんぼり)」です。「あかりをつけましょ ぼんぼりに……」で始まる歌はあまりにも有名です。余談ですが、世界で一番オルゴールの曲として使われているのは、この「うれしいひなまつり」の歌だそうです。
雪洞の柔らかなあかりに照らされたお雛さまの「はんなり」とした表情や雰囲気は、家庭のなかにこの上ない安らぎをもたらし、家族の絆を強く感じさせてくれます。雪洞の光に包まれた雛人形の姿は、日本人が世界に誇る人形文化の最高傑作と言えるのです。
人形の祖先は、人の形をした、ほうこ、あまがつといったものが古く、祓えや魔除けの色合いを強く持っていました。奈良時代中頃、平城宮朱雀門前で、六月と十二月の最終日には、大祓えが挙行されました。国がおこなう最大の祓えでした。皇族をはじめ役人全員が参加しました。壬生門の前の溝からは、大祓えの時に使った人形二百点あまりが見つかっています。
災いを人に代わって背負い水に流される。人形のそもそものはじまりは、深く信仰と結びついていました。やがて子供の健やかな成長を願い、あまがつ、ほうこというシンプルな人形が部屋に飾られるようになりました。時は移り絢爛たる武家文化、町人文化を花咲かせた江戸時代、日本の人形文化は一気に黄金時代を迎えます。
ひいなとは、小さくて可愛らしいもの、その姿は、紙から押し絵、衣裳を付けて胡粉を塗る物となり、江戸時代には、人々の好みを色々に写し取るようになりました。 端午の節句に飾られた武者人形、武をぶ御祝に家の前に飾られた兜や鎧が、いつしかこのような人形となって座敷に飾られるようになったのです。後三年の役の勇者、源義家(写真1)、神話時代、遠征に数々の武勲を挙げた神功皇后(写真2)、何れも勇ましい物語を人形に見たてています。
源義家(写真1)
神宮皇后(写真2)
謡曲高砂を舞う人形(写真3)、舞の初さ添えられた、の面、重ね着している能衣裳の一枚一枚に至るまで丁寧にこしらえられた衣裳人形。江戸期には、このような優れた衣裳人形が、数多く見られます。中国の皇帝を見たてた鶴亀(写真4)、大陸風の衣裳に切れ長な面立ち、冠に鶴亀をいただいて立膝をしたその姿は、衣裳人形の絶品と言えます。お能「鶴亀」を題材にしたもので、長生殿の初春ので皇帝に長寿をさずける鶴と亀を写しています。水引を付けてあどけなく笑う立姿三体(写真5)、水引は、この人形が贈り物に使われたことを表しています。どんな人が、どのような御祝に、この愛らしい人形を飾ったことでしょう。中国風の人形や、たっつけ袴に、をはおった道中物売りの姿、を被り、上っ張りに前掛をしめた店売りの姿など、当時の生活振りが生き生きと写されています。
高砂(写真3)
鶴亀(写真4)
立姿三体(写真5)
京都を通る西国大名が、御所参内に賜ったり、の際に徳川家のお土産に用い
たのが、この御所人形(写真6)です。三頭身の大きな頭に特長のある目鼻立ち、御所人形は、日本を代表する人形と言えるでしょう。人形と言えばお雛様、お雛様と言えばお内裏様、男女一対の内裏雛は、はじめは、立ち姿(写真7)でした。紙で作られ衣裳もはに小袖、袴、は小袖に細幅の帯姿で室町時代の庶民の風俗をかたどったといいます。しかしその顔立ちの美しさは、もう立派なお雛様です。
御所人形(写真6)
立ち姿(写真7)
享保雛(写真8)
有職雛(写真9)
座雛は立雛よりおくれて江戸中期の終わり頃から盛んになり、様々なタイプのものがつくられるようになりました。 古いものから順に、室町雛、寛永雛、元禄雛、次郎左衛門雛、と発展しました。この中でも享保期に流行した享保雛(写真8)は、現在の雛人形の原型になりました。雛の頭に髪が植えられ、目は切れ長で、口を少し開いた写実的な面だかな顔立ち、男雛の衣裳は、金襴、錦などを用いて、太刀を差し、手にを持たせています。女雛は、の重ねに姿で、袴に綿を入れて丸く膨らませ、袖を大きくはみ出し、手にを持たせています。この時代は、町人階級が台頭し贅沢な高級品が好まれて人形が大型で豪華になりました。その大きさを今のお雛様と比べて見ると違いが良くわかります。 豪華になりすぎたため幕府より「八寸以上のものの製作を禁ずる」とのおふれがたびたびだされたようです。享保雛の豪華さとは対照的に公家風俗を正しく考証した有職雛(写真9)、朝廷の装束を担当する公家の高倉家、山科家が調整したと言われ、身分、年齢、季節などによる有職の定めを正しく伝える気品あふれるお雛様です。
京都の有職雛に対して作られた江戸の文化・文世期の古今雛、その傑作とも言える第十一代将軍家斉侯ゆかりの二十二人揃い雛人形(写真10)、この雛人形は、家斉公が、末姫誕生を祝って十数年の歳月をかけてつくりあげらせたものです。その大小千三百点にも及ぶ道具類の数々(写真11)。ミニチュアながら実物の高級品同様に、極めて細工が細かく、かつ豪華につくられており、当時の大名貴族のな生活ぶりがしのばれます。人形を愛し、いとおしむ気持ちがこれほどまでの美しさ、豪華さを創り出しました。
古今雛の面長な顔立ちは、京の御所文化への憧れを示しています。また、眼にガラス玉や水晶をはめ込んだものもあり、衣装に金糸や色糸でをしたり、袖にを用いたりして華麗に色彩豊かにつくられました。もう一つ特長のある雛人形に、徳川親藩尾張大納言十三代徳川義親侯ゆかりの十五人雛段飾り(写真12)があります。面白いことに人形の大きさが上の段から下の段に行くほど大きくなっています。現在ではお内裏様は、三人官女や五人囃子よりも大きいのが普通です。これも時代背景を写しているのかも知れません。当時、武士よりもお公家様のほうが位が高かったわけですが、「実際には、武士の方が偉いんだぞ」ということを人形の大きさに表したのかも知れません。雛段前の金蒔絵をほどこした八角形の見事な貝桶、貝合わせは平安時代から始まった遊びで、内側に源氏絵などが描かれた360個の蛤を二つに分け、同じ絵の蛤を一対でも多く合わせたものが勝ちとなる遊びです。この貝桶を見ていると当時の人々の貝合わせを楽しむ声が聞こえてくるようです。
ここに紹介しました人形たちは、昔の大名や旧家の所蔵品が大部分ですが、これらを特に優れた人形たちとしているわけではありません。美術工芸的な意味での優劣はともかく、人形を愛する人々が大切にしていた人形なら、それが素朴な土人形であろうと、細工の粋をこらした豪華な雛人形であろうと、その人形を愛する人にとっては最高のものです。幸運にも人形を愛する人々の手で今日まで受け継がれてきたことが大切なのではないでしょうか。
これらの人形を愛した当時の人々の思いをしのび、この祖先から伝わる、これら真心の遺産を大切に次代に引き継がなければなりません。
二十二人揃い雛人形(写真10)
道具類の数々(写真11)
十五人雛段飾り(写真12)
次頁のパンフレットは、平成元年まで利用していたものです。そして、横浜人形の家で人形たちを披露した後、福岡県八女市にあるフジキ工芸産業人形会館に譲り受けていただきました。現在も大切に保管展示されています。
前項で紹介したのは、日本の人形の歴史と、小さくて愛らしきもの「ひいな」から生まれたさまざまな人形たちでした。しかし、その中に登場する「雛人形」という文化は、ただ日本の人形史の流れだけを追っていては生まれてこなかったものです。
やはり雛人形の本流は「曲水の宴」の精神であり、その宴に込められた思いが、江戸時代に「雛祭り」という言葉や行事を生み出すことへと繋がってきたのだと感じます。
「雛人形二千三百年の時空の旅」は、曲水の宴を本流としながら、日本の人形作りの歴史と絡み合い、まるで奇跡のようなタイミングで誕生し、今日まで連綿と受け継がれてきたのです。
「流し雛」から「雛祭り」へ:歴史に刻まれた最古の記録
約二千三百年前に中国で始まった雛祭りの起源「曲水の宴」は、上巳の節句の宮中行事として執り行われていました。それが日本の平安時代頃より、宮中行事とは別に、官位や身分に関係なく行われる「流し雛」へと発展していきます。
この流し雛が江戸時代に入ると、室内(座敷)で楽しむ「雛遊び」へと変化して急速に盛んになり、自然と「雛祭り」と呼ばれるようになっていきました。
文献に「雛遊び」として記載された日を正式な記録の始まりとするならば、それは西暦1629年(寛永6年)3月3日のことになります。『西洞院時慶卿記(にしとういんときよしきょうき)』に、後水尾天皇の中宮・東福門院和子(かずこ)様が、娘の興子内親王(おきこないしんのう/のちの明正天皇)のために雛遊びを催したという記事が書かれており、これが歴史上記録されている最も古い雛祭りの記述です。
大奥で華開いた雛祭り文化
また、三代将軍・徳川家光公の時代、大奥では女の子が生まれるたびに雛人形が贈られるという風習が生まれました。
西暦1644年(正保元年)3月1日、家光公の長女・千代姫へ諸老臣たちより雛人形が贈られたのが、その始まりとされています。
その後、大奥における雛祭りは年を追うごとに豪華で盛んになっていきました。中でも前項の「二十二人揃い雛人形」でご紹介した第十一代将軍・徳川家斉公は大変子宝に恵まれ、女の子だけでも二十人以上もうけられたと伝えられています。そのため、各地からあちらこちらと立派な雛人形が贈られてきたため、当時の大奥はそれは大変な騒ぎになったということです。
(江戸時代コレクション 上:享保雛 / 下:五人囃子)
時は流れ、流し雛の主役であった雛人形は「立ち雛」から「座り雛」へと形を変え、江戸時代には「雛祭り」と呼ばれる行事になりました。そして現代社会においても何ら変わることなく、四季の行事としてすべての女性たちに祝われ、大切に受け継がれています。
平安時代の「流し雛」という行事の名前から、江戸時代の「雛祭り」という名前に変わったその時から、雛人形は初節句を迎えた女児だけでなく、年齢を問わず「すべての女性が楽しむもの」になりました。
祭りと名のつくものは、身分も年齢も関係なく、誰もが神輿を担いで賑やかに踊り、豊作を喜び、神に感謝を捧げるものです。同じように、雛祭りもまた、すべての女性が主役となり、心から参加できるものでなくてはなりません。
日常の暮らしに寄り添う雛人形の魅力
雛人形には、季節の変わり目に「どうか体に気をつけてくださいね」と伝える危険信号としての役割があることは、すでに述べたとおりです。それと同時に、雛人形は「夫婦の絆」を象徴する姿でもあります。
「これまでも仲良く、そしてこれからもずっと仲良く」という温かい気持ちを込めて、還暦のお祝いや誕生日、結婚記念日に、ご主人や子どもたちからお母様へ雛人形をプレゼントする――それはとてもおしゃれで素敵なことです。
また、女性が宝石などで外へ出かけるためのおしゃれを楽しむように、訪ねてくるお客様を迎える「家の中のおしゃれ(インテリア)」として、雛祭りのシーズンや結婚記念日の前後などに玄関先や居間へ雛人形を飾ることも、暮らしを豊かにする素晴らしい過ごし方ではないでしょうか。
世界へと羽ばたく日本文化の象徴
さらに、雛人形は海外の人々に日本の文化を紹介する際にも、非常に適した存在です。
この日本人形文化の象徴とも言える雛人形を海外の方々に紹介することは、もっとも日本的であり、また「男女一対」の美しい姿からは世界共通の「人間愛」が伝わるため、文化の友好大使としての役割も十分に果たしてくれることでしょう。
この雛人形という、世界的にも例を見ない類まれな人形文化は、日本を代表する伝統であることはもちろん、現代に生き続ける「世界文化遺産」と言っても過言ではない――私はそう確信しています。
2000年、沖縄サミットの開催を記念して二千円札が誕生しました。この紙幣には、沖縄の「守礼門」とともに、『源氏物語』の絵巻、そしてその作者である「紫式部」が描かれています。
自然の存在を畏れ敬い、神と崇めてきた沖縄の人々の心と、雛人形の歴史には深く相通ずるものがあります。なぜなら、雛祭りの本質もまた、「自然と人間との関係性」から誕生したからです。
20世紀に入り、人間は科学技術の発展とともに自然に対しておごり高ぶるようになりました。しかし日本では阪神・淡路大震災、世界的にも地球温暖化やオゾン層の破壊といった深刻な問題に直面し、「人間は自然に生かされているのだ」ということを改めて認識し、襟を正さなければならないと考えるようになってきました。
その表れの一つとして、沖縄サミットでは「IT革命」などが取り沙汰されたのではないでしょうか。文明の発展とともに過剰消費が進み、便利さと引き換えに「適正な消費生活」へと戻りにくい経済状態やライフスタイルが定着してしまいました。そのなかでも特に紙の消費量は、20世紀に天文学的な勢いで増え続け、今なお価格破壊を背景に増加し続けています。
そうした過剰消費を食い止め、ペーパーレス化を推進するためにも、インターネットをはじめとするIT技術の活用が急務とされているのです。しかし、長年「紙に依存した生活」に慣れ親しんだ人類がそこから脱皮することは決して容易ではありません。
だからこそ沖縄サミットは、その架け橋となるべく、世界トップクラスの美しい海を持つ沖縄を会場に選んだのではないでしょうか。世界に「自然の持つ圧倒的なパワー」を強烈に訴えかけようとしたのだと思います。沖縄の透明感あふれる海は、想像を絶する美しさです。そこで泳ぐ魚たちや珊瑚礁の鮮やかな色彩は、見る者すべての心を打ちます。それはまさに「自然美の傑作」です。
二千円札に込められた歴史のロマンと、宇治市への願い
高度経済成長期に自然破壊を続けてきた工業国・日本は今、その過去の責任を真摯に受け止め、「世界第一級の自然環境保護国」を目指して奮闘しています。その日本において、沖縄の人々は世界に誇る美しい青い海を守り、受け継いこられました。第二次世界大戦における不幸な歴史を背負いながらも、沖縄を訪れた人々が最初に出会うのは、いつも明るく心豊かな人々と、大らかな風土です。
その源泉こそ、沖縄の人々が大切に守り続けてきた「自然のパワー」にあると私は思います。日本で最も平均寿命が長いことも、食生活以上に、沖縄の自然がもたらす「心の豊かさ」に起因しているのではないでしょうか。
この沖縄を象徴する「守礼門」と、人間と自然の関係から生まれた雛祭りの象徴である「紫式部」を紙幣の意匠に選び、記念紙幣としたことは、日本の紙幣史において後世に残る傑作と言えるでしょう。
この記念すべき二千円札を眺め、雛人形の二千三百年の歴史を振り返るとき、その誕生が「人間と自然の関わり」と深く結びついていることに、不思議な縁(めぐりあわせ)を感じずにはいられません。
話は変わりますが、京都府宇治市は「紫式部と源氏物語の町」です。そして宇治市は、日本で現在流通している硬貨・紙幣(全10種類)のうち、何と2種類に深く関係している特別な街です。それは、宇治の平等院が刻まれた「十円硬貨」と、この章で取り上げた「二千円札(紫式部)」です。
全国に約1,700あまりの自治体(市町村)があるなかで、2種類ものお金の歴史に関係している街は他にありません。これは宇治が「日本の文化を代表する特別な場所」であることを如実に物語っています。
雛人形のルーツを結ぶ、未来への文化交流
ところで、不思議なことに全国を探しても「雛人形発祥の地」とされる明確な場所は存在しません。
しかし「雛人形二千三百年の時空の旅」の視点に立てば、紫式部こそが『流し雛』を誕生させた人物であると考えています。そうであるならば、源氏物語の舞台である宇治市こそが「雛人形発祥の地」であると考えてもよいのではないでしょうか。世界最古の女性心理文学と、世界最古の女性文化(流し雛)の誕生の地として、多くの人々が訪れる町になってほしいと心から願います。
そしていつの日か、
1. 中国・紹興市会稽山陰の蘭亭(雛人形のルーツである曲水の宴の地)
2. 沖縄県(世界で最も美しい海を持ち、自然と人間の共生を伝える地)
3. 京都府宇治市(源氏物語と雛人形のルーツが息づく発祥の地)
この3つの都市が「雛人形を語る文化交流の場」として固く結ばれることを願ってやみません。その取り組みは、環境に最も優しい観光産業の一翼を、雛人形が担っていくことにも繋がるはずです。
(2000年沖縄サミット記念二千円札)
もともと、杯(曲水の宴)から生まれた雛人形は、平安貴族の女性たちによって「流し雛」という、世界的にも例を見ない独自の文化行事として誕生しました。
曲水の宴は、貴族や官位を持つ人々、そして男性が主体となった一部の人々の行事でありました。しかし流し雛は、女性であれば身分を問わず、すべての人が行うことのできる行事として始まりました。そこには「平等な世の中を願う心」や「子どもを慈しむ母親の心」といった、いつの時代も変わらない女性の切なる願いがあり、流し雛は普遍性をもって日本各地へと広がっていきました。
そして時の流れの中で形を変えながら「雛祭り」となり、今日に至るまで連綿と受け継がれてきたのです。
この科学技術が発達した現代の文明社会においても、雛人形は過去の遺物でもなく、一部の愛好家による趣味的な伝統文化でもなく、人々の生活の中に脈々と生き続けています。
現代に生きる雛人形の役割と、日本女性への誇り
雛人形が果たす役割は、季節の変わり目に「どうか体に気をつけてくださいね」と伝える危険信号だけにとどまりません。それは「物を大切にする心」や「整然と整える教え(整理整頓の教え)」を今に伝えてきました。この日本人が持つ「物を大切にする繊細な心」と、それを継承していく精神は、今日の日本の発展(世界に負けないものづくり)の土台にも少なからず繋がっていると考えられます。
現代の日本女性たちは、世界最先端のファッションに身を包み、最先端のレジャーを楽しみ、最先端の電化製品をスマートに使いこなしています。そんな彼女たちが、決して生活必需品ではなく、決して安価なものでもない雛人形を、時期が来ると真剣な眼差しで選んでいます。その姿を目の当たりにする時、私は雛人形の偉大さと、その素晴らしい伝統文化を誕生させた日本女性たちに対し、誇りと尊敬の念を抱かずにはいられません。
そもそも、杯から始まった雛人形に「こうでなければならない」という固定化された伝統的な飾り方のルールがあるわけではありません。それは時代の背景を色濃く映し出しながら、柔軟に変化してきたものです。現代社会における住宅事情や、子育てに忙しい複雑な生活様式のなかで、雛人形のスタイルも多様化してきました。しかし、雛人形に込められた「祈りの心」は、いにしえの女性たちから現代の女性たちへと、少しも衰えることなくしっかりと受け継がれています。
この、他国にはない伝統文化の精神が受け継がれている限り、経済の一時的な停滞はあったとしても、日本の将来には必ず明るい未来が開けていると私は確信しています。
伝統文化の精神こそが、日本を救う
書聖・王羲之は、漢民族の危機的状況の中であえて伝統文化である「流觴曲水の宴」を行うことによって、人々の心に民族の誇りを呼び覚まそうとしました。
三国志の時代、魏の文帝・曹丕は、「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」と高らかに宣言し、文学や文化こそが国家を救い、民を救う何よりも大切なものであると言い切りました。
今、日本の低迷した経済状況を真にブレイクスルーするためには、こうした伝統文化の精神をもう一度見直すことも一つの有効な方法かもしれません。そのなかでも、私たち日本人にとって「雛人形」こそが、国を救い、民を救う何よりも大切な宝であるかもしれないのです。
「雛人形は、経国の大業にして不朽の盛事なり!」
(雛人形八つの役割 その八)
この冊子を執筆しているうちに、私は「雛人形の歴史を書いている」というよりも、まるで「雛人形のひとつの人生を書いている」ような不思議な気持ちになってきました。
なぜなら、雛人形の歴史を振り返ってみると、人間の子どもが母親の胎内で育ち、やがて成人へと成長していく過程と、「曲水の宴」が現在の雛人形へと進化するまでの過程が、驚くほどよく似ていると感じるからです。
雛人形の歴史を人間の人生に置き換えてみるならば、次のようになります。
受胎・誕生
今から二千三百年前、自然と人間の関係性の中から生命の芽生え(曲水の宴)が起こりました。
幼少期
約千年前、日本において「流し雛」として誕生し、杯から生まれた簡素ながらも男女一対のわらや紙の人形となりました。曲水の宴がそうであったように、流し雛もまた、豊かな水の流れの中で育まれていきました。
成長・自立
しかし、しばらくして人形は「立雛(たちびな)」となり、川を離れて家の中で大切に育てられるようになりました。
成熟・開花
そして約四百年(江戸時代)前には「雛祭り」という行事になり、座る姿の「座り雛」へと変わっていきました。
現在への歩み
その後も衣装はより豪華に、作りはより精緻になり、お顔も繊細な表情へと磨かれました。現在に至るまで、姿かたちや衣装、スタイルを変えながら、雛人形は成長し続けています。
そしてこの二千三百年の「人生」のなかで、雛人形は数多くの歴史上の人物たちと出会ってきました。秦の昭王に始まり、現代の私たちに至るまで――。雛人形はこれからもさまざまな人々と接しながらドラマを生み、大切に育てられ、成長し続けることでしょう。
私は雛人形の歴史を調べていく中で、何度となく驚き、心を揺さぶられる感動に出会いました。その中でも最も感動したことは、この雛人形の「人生」という一本の軸を通して、それまでバラバラだった断片的な歴史の点と点が、見事に一つの大きな物語として繋がっていったことでした。
二〇〇三年九月
平 安 春 峰
【雛人形 TVCM シリーズ】
(映像:母と娘の温かな思い出のシーン)
「お母さんは、私が何もわからないときでも、おひなさんを飾ってくれました。」
「弟が生まれて、お母さんも忙しくて、おひなさま二人しか飾れないときもありました。」
「お母さん、私のために十八年間もおひなさまを飾ってくれてありがとうございました。おひなさまを飾っているお母さんの後姿は、とても素敵でした。」
参考文献
『アメリカ素描』 司馬遼太郎著(新潮文庫)
『十六の話』 司馬遼太郎著(中公文庫)
『NHKスペシャル 故宮至宝が語る中華五千年』第一巻・第二巻(陳舜臣、阿辻哲次 ほか)