• 五月人形

人形のモリシゲ

平安春峰(ドールコーディネーター)

五月人形の歴史=端午の節句の歴史(種子島の狩人と鬼)と鯉のぼりの歴史

端午の節句の起源には、諸説があります。約二千三百年前、中国の戦国時代に、楚の国に屈原(くつげん)(前三四〇頃~前二七八頃)という政治家がいました。詩人としても有名な屈原は、強い正義感と憂国の情を抱いて「国を救い民を救わん」と国事に尽くしましたが、中傷により失脚、放逐され、故国の前途に失望し、汨羅(べきら)のふちに身を投じてしまいます。放逐時の想いを歌った長編叙事詩「離騒(りそう)」は、中国文学史上不朽の名作と言われています。その屈原が投身した日が、五月のはじめ(端)のうま(午)の日前後であったようです。 屈原の豊国、人民のための政策は、死してさらに人々に惜しまれ、沢山のちまきを川に投げ入れ国の安泰を祈願する風習へとなります。今日、端午の節句にちまきや柏餅を食べて祝う風習の由縁でもあります。屈原は、この風習と長編叙事詩「離騒」と合わせ憂国の政治家、そして詩人として有名になります。いつしか、その風習は、季節の変わり目ということもあり、病気や災厄をさけるための大切な宮中行事、端午の節句となったのです。五月はじめの午の日に行われた端午の節句は、約五百年後、世に有名な中国の三国志の時代に、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められます。日本では、邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)が、魏の国に使いを出した頃のことです。この中国の行事が日本に伝わり端午の節句として、今日まで連綿と伝えられてきたのです。

端午の節句は、菖蒲の花が咲く時期でもあり、菖蒲の節句とも呼ばれるようになります。古くから中国では菖蒲は厄よけの花として、そして、よもぎは薬草として端午の節句の行事に使われてきました。厄除けの宮中行事から鎌倉時代の武士のあいだで菖蒲は、尚武(しょうぶ)の言葉に重ね合わされ、武をたっとぶ節日(せつじつ)として盛んに祝われるようになります。また、泥沼に綺麗な花を咲かす菖蒲の姿は、如何なる環境の中でも、志の花を咲かす男児の心意気の象徴として、板東武者にも好まれるようになります。鎌倉期の鎧の金物に、菖蒲の透かしを多く見かけるのも、その心を託した現われです。この頃から、端午の節句は、男児の節句としての色合いが濃くなってきます。今日では、中国の端午の節句とは異なり、日本独自の伝統行事として、男児誕生を祝い「健やかに、たくましく育ってほしい」という願いを込めて、鎧や兜・鯉のぼりを飾る行事になったのです。

端午の節句=菖蒲の節句の由来ー鹿児島の昔話(種子島の狩人と鬼)ー

日本各地に端午の節句にちなんだ多くの物語が残っています。その中の一つに、鹿児島の昔話があります。種子島の狩人と鬼の話です。狩人が、ある年の五月五日に狩に出かけたときのことです。山奥で鬼に出くわします。狩人は、抜けそうになる腰を押さえ、慌てて近くにあったよもぎの林に逃げ込みます。すると鬼は、「火の中に狩人が飛び込んだ」と、よもぎの林を恐れ、近づくことができません。しかしながら、鬼は立ち去ろうとはしません。狩人はしかたなく、すきを見てふもとに向って逃げます。しかし、鬼は追いかけてきます。逃げ切れず、今度は、菖蒲の沼に飛び込みます。すると鬼は、「剣の林に飛び込んだ」と、恐れ、またまた近づくことができません。そこで狩人は、菖蒲を一株抜き取り頭の上にかざし家に逃げ帰ります。鬼は追いかけてきますが、狩人が頭にかざした菖蒲が怖くて捕まえることができません。狩人は村中の家に、大声で軒先に菖蒲を刺すように知らせ、菖蒲のない家には、よもぎを刺すように知らせます。しばらくして仕方なく鬼は、山に退散するという話です。
今日に伝わる軒菖蒲(のきしょうぶ)、枕菖蒲(まくらしょうぶ)、菖蒲湯(しょうぶゆ)、蓬餅(よもぎもち)を端午の節句に食べる風習は、先の昔話などと無縁ではありません。五月飾りに使用される緑の毛氈も、よもぎ色を用い、前面の繧繝の柄には、菖蒲を用いています。

鯉のぼりの歴史ー端午の節句の庶民への広がりー「Japan Spirit」

端午の節句は、江戸時代には、武家の軒先に幟(のぼり)や旗差物(はたさしもの)を飾り、また、玄関や床の間には鎧や兜を飾るようになります。そして、江戸中期には、庶民の間に、武家に対抗して鯉のぼりを軒先に上げるようになり、玄関や床の間には、武者人形を飾るようになります。江戸中期の川柳の中で「五月雨が晴れて鯉の竹のぼり」と詠まれています。また、江戸時代の鯉のぼりが、浮世絵師・歌川広重の「名所江戸百景 水道橋駿河台」に描かれています。わが子のすこやかな成長を願う親心に、昔も今も、かわりないことを、しみじみ感じさせてくれます。歌川広重の江戸の風景画に描かれた鯉のぼりからも、端午の節句の庶民への広がりを伺うことができます。今日の鯉のぼりは、昭和の歌に倣い真鯉(お父さん)と緋鯉(お母さん)に子供の三匹ですが、歌川広重の風景画は一匹です。江戸時代では、最初の鯉が男児の鯉で後の鯉はお供の鯉でした。そうしたことから、今日でも淡路島などでは、お供の鯉が多いほど良いとされ初めから五匹の鯉を上げる地域もあります。 

今日、科学技術の発達した現代社会の中でも端午の節句は、時代を反映し、かたちを変えながらも子供の健やかな成長を祝う大切な日として受け継がれています。

端午の節句の伝統行事が実際に病気悪癖から身を守ってくれるものではないかもしれません。しかしながら、日本人が、連綿と受け継いできた、この伝統文化は、他国にはない日本人の精神(Japan Spirit)のよりどころであることは確かです。この古来から日本人が信じてきた行事が、そして菖蒲やよもぎなどの自然の息吹が、コロナウィルスを退治してくれることを祈るばかりです。

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鯉のぼりベランダセット1.5m龍神伝説

古代中国の物語では、黄河の急流にある「龍門」と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みた結果、「鯉」だけが登り切り、「龍」となって天空を駆け抜けた、と伝えられています。「鯉の滝登り」が立身出世の象徴となったのはこれが由縁です。「龍神伝説」はこの物語にちなみ、堂々と生き、努力を積むことでやがて雄大な人物になるようにと、お子様の成長を願い作られました。

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