• 企業ヒストリー

人形のモリシゲ

平安春峰

人形のモリシゲのルーツ(祖父母との関係)ファミリーヒストリー

メイン画像は、若き日の祖父溝口徳太郎(明治22年~昭和48年)です。明治から大正にかけて大阪松屋町でカルタ問屋を営んでいました。祖父は家業を親から引き継ぎ財を築きます。そして、大阪阿倍野の文の里に立派な邸宅を建てます。当時、名家の邸宅の建築を請け負っていた「あめりか屋」の案内書に祖父の名前があります。「あめりか屋」の御顧客名簿には男爵、子爵、伯爵に交じってカルタ問屋溝口徳太郎の名前が記載されています。また、記載だけでなく祖父の邸宅の写真まで紹介されていることから「あめりか屋」の中でも特別な邸宅だったようです。また、邸宅の庭は近代式造園業で名を馳せた橋本八重三氏によるものでした。橋本八重三氏は、大正11年大阪心斎橋に誕生した大丸呉服店(W.M.ヴォーリズ設計による鉄筋コンクリート造7階建て)の建物屋上に、池、花台、日時計、メリーゴーランド、猿舎など娯楽的要素を配した屋上庭園の新機軸を打ち出した人です。その後、ほとんどの百貨店には屋上庭園(屋上遊園地)が設置されます。しかし、昭和の子供達のパラダイスであった百貨店の屋上遊園地は今では見ることはありません。雑誌「庭242」2021年春号「第二回造園界の偉人たち」に橋本八重三氏が紹介されており、代表的な庭園の一つに大阪の溝口徳太郎邸が記載されています。残念ながら写真が残っていないので、どの様な庭であったかわかりません。その文の里の邸宅は、昭和16年頃(母が大阪附属幼稚園を卒業した頃)売却することになります。この年、太平洋戦争がはじまり、その影響で祖父は、小豆相場で大きな損をしたようです。その後、この邸宅は、10年程前まで旅館として使用されていたと聞いています。また、大阪松屋町のカルタ問屋も昭和の初め頃には、閉じています。現在の山本人形南店あたりに店があったようですが、文の里の自宅売却後移り住んだ自宅が火事に巻き込まれ、写真のほとんどを焼失してしまい、記録をたどることができません。また、火事に巻き込まれ自宅が全焼した後(昭和30年頃)、祖父(66歳)祖母(52歳)は、高齢にも関わらず玩菓問屋を立ち上げます。私の父母が手伝っている姿が写真に残っています。しかし、数年で玩菓問屋は閉じてしまいます。その後、祖父母は全国の観光地を転々と旅行しています。その時の記念写真が沢山残っています。大正8年に創業した森重商店(人形のモリシゲ)は昭和の初め頃大阪松屋町に店を構えます。昭和37年12月1日に、森重商店楽器部開設パーティーに祖父が招待されています。大阪松屋町でカルタ問屋を営んだ祖父、その家業を引き継ぐように父と母が出合い、人形のモリシゲへと受け継がれて行きます。人形のモリシゲビル壁面に設置している紋章の丸に立沢瀉は、溝口家(丸福カルタ問屋と丸福玩菓問屋)の家紋を受け継いだものです。

上から祖父の母親の葬儀(文の里邸宅全景唯一の写真)、文の里門塀、客間、料理台と食器棚

上から文の里の邸宅玄関入口にて母、大阪附属幼稚園卒業寄せ書き、「あめりか屋」案内書と御顧客名簿

上から雑誌「庭」2021春号第2回造園界の偉人たち、橋本八重三氏の広告宣伝、2021年春号に祖父溝口徳太郎邸

上から昭和30年頃、祖父母の自宅火災跡にて父母、「丸福玩菓問屋」にて祖父母と父母

上から3画像「丸福玩菓問屋」にて祖父母

上から昭和63年10月爆笑クリニック大阪の名物社長夫婦として出演した父母、溝口家の紋章「丸に立沢瀉」

上から観光地を巡る祖父母、、昭和37年12月森重商店(人形のモリシゲ)楽器部開設パーティーに出席する祖父

祖母富子(明治36年~平成16年)和裁士、着物仕立で祖父を支える、長兄王寺町長、母方従妹は當麻寺に嫁いでいる

母の姉夫婦は過疎地医療に貢献する、90歳近くまでピアノ教室を続ける、現在98歳でご健在です

四天王寺南谷恵敬執事長に納骨法要を務めていただく、このブログは溝口家先祖代々、父母に捧ぐ

ブログ参考文献 あめりか屋案内書、「庭242」2021年春号は従姉の高崎経済大学大河原眞美名誉教授からご提供

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